求めよ

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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 イエスの約束。

 私たちは一体、何を求めているのだろうか。
 かつて「ヤベツの祈り」というのが流行ったことがあるが、「地境」云々というような現世利益を求めているのではない。それでは単なる御利益宗教にすぎない。
 十字架に架かって肉を処分し三日目に復活したイエス、このイエスに求めるものは、その復活であり「いのち」である。
 宮清めを断行したイエスに御利益を求めても、相談窓口が違っている。

 イエスは恵みによって「いのち」を与えてくださる。
 そのとき私たちにお会い下さる。
 だからその救いが実現するように求め続け、捜し続け、たたき続ける。
 与えられ、開かれることを、私たちを恵んでくださることをイエスは約束している。

 カナン人の女は、しつこいまでにイエスに食い下がって、異邦人であるにもかかわらずイエスに娘を癒してもらう(マタイ15:22-28)。
 「娘の癒し」は型で、つまり救いの型である。
 それくらいまでしつこく求め続けた果てに、大いなるイエスの恵みに預かることができる。

 求め続けた私たちにヨブの苦しみ、アウグスティヌスの苦しみが襲ったとき、それでも求め続ければやがてアウグスティヌスの喜びが訪れるはずだ。
 そのとき私たちは、こう叫ぶだろう。

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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