すでに世に勝ったのです

 「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)

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 十字架を前にしての、イエスの実質的に最後のメッセージ。

 イスカリオテ・ユダはイエスを裏切り、イエスの十字架の道は既に始まっている。
 他の弟子たちも自己保身からイエスを一人残してしまうこととなる。
 ところが、この十字架の道を歩むことこそ「世に勝った」ことなのだとイエスは言う。
 ちなみに、世「で」勝った、この世の中での勝利者に登り詰めたという意味では全くない。

 神の子イエスは世を救うために、受肉してこの世に来られた。
 十字架の道、すなわち自らの肉を極刑の十字架で処分し、そのことを御父に認めていただいて復活することによって世を救おうとしている。
 この十字架と復活を信じる者は、イエスから「いのち」を得て世から救い出される。
 イエスはこのようにして、ご自身がこの世に来られたことの目的を達成する。
 イエスの言う「世に勝った」とは、世を救うという目的を達成したことを指す。

 イエスが世から救い出した者は、自身もイエスと同じ十字架の道を歩んでいると分かっているので平安がある。
 私たちはイエスを知っているので、十字架の道がどういう道なのかを知っているからだ。
 彼はこの世にあるのだが、イエスから救い出されてこの世の者ではない。
 それゆえに、「世にあっては患難があります」。
 それは、十字架の道を歩んでいるがゆえの患難だ。
 イエスは、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とエールを送る。
 イエスと同様に患難を超克できるのだから、その患難を受け入れなさい、という位の意味合いだろう。

 イエスに出会った者はイエス同様、「すでに世に勝ったのです」。

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