神の子イエス

 「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(ヨハネ11:41-48)

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 イエスがラザロをよみがえらせた箇所。
 そのわざに際して、イエスは「しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために」と仰っている。
 つまり、人々が御自身を神の子と信じるようになるためにラザロをよみがえらせるのだと、宣言している。

 では、人々がイエスを神の子と信じたら、何だというのだろう。
 祭司長やパリサイ人たちは、そうなることを恐れている。
 信じた人々がイエスを王に立てて、イスラエル独立運動へと発展するだろう。 これまでの支配階級は放逐され、ローマが立ち上がる。
 ちなみに、ヨハネ福音書でのイエスは、御自身が王と祭り上げられることを避けている(ヨハネ6:15)。

 だが、それにもかかわらず、イエスは御自身が神の子であることを人々が信じるために、ラザロをよみがえらせる。
 神の子イエスは、人間と同じ肉をまとった神である。
 その肉は、人間のそれとは異なり罪を宿していない。
 罪のないただひとつの肉、それが神の子イエスである。
 だが、そのイエスが極刑の十字架に架かる。
 それも、自ら架かるために世に来られた。
 それは、全人類の罪深い肉が受けなくてはならない極刑を、罪のない肉が身代わりに受けることで、人間をその罪から救うためである。
 罪ある肉の十字架には、そのような効力はない。イエスの両脇の2人の十字架には、全く何の意味もない。
 神の子イエスというけがれなき捧げものが受け入れられて、イエスは復活して人間の罪は処理された。
 このイエスを信じることが出来るならば、その人は罪から解放されるのである。

 そのために、大前提として、イエスが神の子であることを信じさせる必要があったのである。

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