わたしは羊の門です

 「そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:7-11)

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 「わたしは羊の門です」。
 門というと、例えば家の門というのは、入ると家の内側、出ると家の外側というように、空間を分け隔てる機能があるように思う。
 私たちが聖書に接する唯一の目的は、イエスという門の中に入って救われることである。
 この門の外側と内側とでは、全く空間が異なっている。
 ただ、この門がどこにあるのかが、分からない。
 それで、これがかの門かと思いこんで入っては、盗人にやられてしまう。

 イエスは「羊のためにいのちを捨て」た門である。
 すなわち十字架に自ら架かる。
 これは、単に羊のためには自らの命をも惜しまない、というだけの意味ではない。
 この極刑の十字架と復活こそ、罪深き肉から解放される「いのち」の初穂であり、また救いの型なのである。
 キリストのこのわざを信じることができたならば、イエスの門がその人を吸い込んでくれる。
 救いは自力では到底叶わず、ただ神の御恵みによるのである。

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