恵みとわざ

 「彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:38-41)

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 「彼」とは、イエスに目を癒していただいた、かつて盲目だった人。
 この人はかつて盲目であったが、イエスに癒していただき目が見えるようになって、イエスを拝した。
 イエスはこの人だから癒そうとしたわけではない。盲目の人は、膨大な数に上る。
 たまたまこの人がイエスの目に入ったから、この人が癒されたにすぎない。
 たまたまなのであり、因果関係(断食をしたから、等)によってではない。
 これが神の恵みである。
 この神の恵みによってのみ、罪深い人間はイエスを信じることができる。

 一方、律法の勉学を修めて「目が見える」と思っているのがパリサイ人であるが、彼らの目が開かれることは、ついになかった。
 かえってその勉学というわざが、イエスという光からパリサイ人を盲目にしてしまう。
 そして、イエスは人間を罪から贖うために来られた救世主であるから、このイエスが見えないということは、アダム以来の罪が贖われることのないことを意味する。
 「あなたがたの罪は残るのです」。

 救いの壁は非常に高く、人間のわざによってはどうやっても登ることができない。
 だが、たまたまあずかる神の恵みという力強い援護によってのみ、この壁を乗り越えることができる。

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