『悪魔』呼ばわりされる『信者』

 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8:43-47)

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 引き続き、「イエスを信じた」という連中とイエスとの会話より。

 人はアダムの肉を持つ罪ある者であり、その点で人となられたイエスとは似て非なる存在である。
 そしてここでは、その罪ある者についてイエスは「悪魔」とまで言っている。
 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう」。
 「このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」。
 それは、イエスが神から出たのに対して、連中が神から出ていない「悪魔」だからだ。

 だが、もしそうだとしたら、イエスそんな連中は、はなから相手にしなくてもいい。この連中とは、どこまでいっても平行線だろう。
 それでもイエスがこの連中に話し続けるのは、平行線でなくなる時が来るかも知れないからだ。
 彼らの中の何人かでも、新しく生まれ変わることにより真理がすとんと分かってイエスの話を理解できる、すなわちイエスそのものが分かって信じることもあるのだから。
 そういう生まれ変わりが起こるために、イエスは栄光、すなわち十字架の死と復活を完徹される。
 この極刑の十字架と復活こそ、新生の型であり、逆にイエスは新生の初穂である。
 極刑により「悪魔」が「悪魔」として死んで、しかし新たによみがえるのだ。

 この信じると言うことは、自律的な営みなどではない。
 信じますと言っても、上のように悪魔呼ばわりされてしまう。
 信じてなどいないのだから。
 イエスの十字架の栄光以後の今、信心は恵みによって神から与えられるものであり、そのことを指して「神から出た者」と言っている。

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