『益』とはなにか

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)

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 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。
 専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。
 私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。
 私たちはイエスを長子とする家族だからである。

 このことについては、モーセの一生を思い出すとよく分かる。モーセは順風満帆にリーダーになったであろうか。そうではなく、彼には不遇な時期が長く続いたのである。しかし、その時期を抜けたとき、すべてのことが神とモーセの双方にとって益として働いた。

 益となるということを専ら自分についての益と考えると、聖書は単なるご利益宗教に堕してしまう。
 そのような読み方というのは、自分に都合の良い言葉をあちこちから拾い集めては我田引水をするばかりで、単に聖書を利用しているにすぎず、聖書に接するというのとはまるで違ってくる。
 この聖書に対するスタンスの違いは「神のご計画に従って召された人々」にかかわっている。
 そして、このスタンスは御子が示した十字架と復活によってがらりと変わるのである。

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[一版]2015年 7月12日
[四版]2024年 4月 6日

 イエス様の平安がありますように!

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