イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
義への飢え乾き
「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)
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ここでいう「義」とは、文脈上、神の義の意。
誤解を恐れず言い換えれば、神に認められるということ。
さらに誤解を恐れずにいうと、神がお造りになった私たちは、その神から認められていない。
アダムの違反のためだ。
アダムの子孫でありアダムの肉を持つ私たちは、神の聖なる律法を遵守することができない。それも全くできない。そのことは、山上の説教の中でイエスがこれから明らかにしてゆく。
律法に照らして、アダムの子孫である私たちは罪深い存在であり、神の義には到達できない。
義を求めてどれだけ熱心に行っても神の水準にははるかに届かず、ここに至って自身の罪深さ、義への飢え乾きはピークに達する。
しかし、その到達できない神の義、これを求めてやまない人こそ幸いだと、ここでイエスは言っている。
なぜなら、「その人は満ち足りる」のだ。神から認めていただけるのである。
そして、そのルートを開通させるべくイエスは世に来て、イエスのわざを完了させた。
すなわち、十字架と復活である。
このイエスを信じさせられたとき、私たちは義と認められ、まさに満ち足りる。
律法を遵守できないことには変わりないが、義とみなされて満ち足りるのである。
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[一版]2013年10月27日
[三版]2022年 7月14日
イエス様の平安がありますように!
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ここでいう「義」とは、文脈上、神の義の意。
誤解を恐れず言い換えれば、神に認められるということ。
さらに誤解を恐れずにいうと、神がお造りになった私たちは、その神から認められていない。
アダムの違反のためだ。
アダムの子孫でありアダムの肉を持つ私たちは、神の聖なる律法を遵守することができない。それも全くできない。そのことは、山上の説教の中でイエスがこれから明らかにしてゆく。
律法に照らして、アダムの子孫である私たちは罪深い存在であり、神の義には到達できない。
義を求めてどれだけ熱心に行っても神の水準にははるかに届かず、ここに至って自身の罪深さ、義への飢え乾きはピークに達する。
しかし、その到達できない神の義、これを求めてやまない人こそ幸いだと、ここでイエスは言っている。
なぜなら、「その人は満ち足りる」のだ。神から認めていただけるのである。
そして、そのルートを開通させるべくイエスは世に来て、イエスのわざを完了させた。
すなわち、十字架と復活である。
このイエスを信じさせられたとき、私たちは義と認められ、まさに満ち足りる。
律法を遵守できないことには変わりないが、義とみなされて満ち足りるのである。
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[一版]2013年10月27日
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