寄り添う聖書

 「(悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの)

 主よ。私の祈りを聞いてください。
 私の叫びが、あなたに届きますように。
 私が苦しんでいるときに、
 御顔を私に隠さないでください。
 私に耳を傾けてください。
 私が呼ぶときに、早く私に答えてください。
 私の日は煙の中に尽き果て、
 私の骨は炉のように燃えていますから。
 私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、
 パンを食べることさえ忘れました。
 私の嘆く声で
 私の骨と皮はくっついてしまいました。
 私は荒野のペリカンのようになり、
 廃墟のふくろうのようになっています。
 私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。
(詩102枕~7節)

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 一週間ほど前、やはりぱらぱらとめくって、出会った詩。
 「悩む者の祈り」。
 どんなときにも、聖書は寄り添ってくれる。

 毎朝毎晩聖書ばかり読んでいた頃がある。
 新約は、まず間違いなく100回は読んだろう。
 詩篇も随分読んだ。

 あるとき私は聖書を捨てた。
 正確に言うと、この書物を開こうとしても、全く頭に入ってこなかった。
 聖書に捨てられたのかも知れない。
 そうして、あんなにもよく覚えていた聖書の聖句群を、ことごとく忘れてしまった。

 今は、聖書を開くと、聖書が語りかけてきてくれる。
 ことごとく聖句を忘れると、どの聖句も新鮮だ。
 詩篇102編。
 やはり何十度と読んだであろうこの詩との「出会い」(再会)はとても新鮮だったし、また、なぐさめでもあった。
 「悩む者の祈り」と記してあったということは、勉強するかのように聖書を繰り返し読んでいたときには気付きもしなかった。

 悩みのさなかにあるときは、そのような内容のものを聖書は用意してくれる。

 「私は荒野のペリカンのようになり、
 廃墟のふくろうのようになっています。
 私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。」
の箇所に、自分が重ね合わされる。

 そして思う、「自分ひとりじゃない」と。
 この102篇の詩人は、しばらく私と共にいてくれた。

 今は、聖書が寄り添ってきてくれる。
 聖書は、「勉強」するものではなさそうだ。
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