神の怒り

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:18-20)

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 「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正」については、その結果どうなったかということが、26節以降に書かれている。
 長いので省略するが、聖書の目的を考えると省略すべきではない。
 つまり、そこに書かれている長い責め文句を、少しでも読み手に反応させたくて書かれている。
 ちっとも反応しない人には、反応しなかった報いがある。

 さて、アダムの肉を持つ人間は、アダムの肉ゆえ、神の規範である律法を全うすることができない(ローマ3:20)。
 それゆえ、全ての人間が神の怒りの下に置かれている。
 その怒りは「御怒りの日」(ローマ2:5、参/マタイ24:2-36)に結実し、その日まで神は怒りを忍耐しておられるにすぎない。
 上に書いた「反応しなかった報い」とは、この日のことだ。
 そのように神が怒りを忍耐されている間も、「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、(以下略)」(ローマ1:29)であり続けたし、ますますそうするようになった。
 すべての人が神を知った上でそうするので、すべての人が神の怒りの下にある。
 言い換えると罪の下にある。

 しかし、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2:4)とあるように、寛容な神は、この罪人を救おうと御子イエスをこの世にお送り下さった。
 この御子イエスの十字架と復活を信じる者は神との間の平和を回復し、義ではないにもかかわらず義であるとみなされる。

 神の忍耐がいつまでなのか、千年後なのか2時間後なのか、これが誰にも分からない(参/マタイ24:36)。
 その、いつまでなのか分からないうちに、恵まれてイエスを信じることができれば、それ以上幸いなことはない。

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