律法と恵み

 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16-17)

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 キリストから恵みを受けた者はみな言う。
 「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」と。
 これからという人も、たくさんいるに違いない。

 律法を遵守することによる救いというのは、終わりを告げた。
 ただ、律法が分からなくては罪も分からない。律法に照らして、何が罪かが示されるからである。その罪に気付かない人は、キリストとは全く無縁である。
 律法を到底遵守できない罪人であることことにうちひしがれた人の下に、救い主イエスが恵みによってお会い下さる、そういう新しい時代が到来したのである。

 つまり、罪の肉にうちひしがれ、どうすることもできないアダムに、十字架に死んで復活したイエス・キリストは救いの光を照らしている。
 その光は、この闇の中をいつも照らしており、恵みとは、その光が自分に照射されることに他ならない。
 そのとき、私たちを縛っていた罪という鎖はほどけ解放され、満ちあふれた「いのち」をいただけるのである。
 その「いのち」がなくなることはない。

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