心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 信仰とは、文字(すなわち律法)を守る営みそれ自体ではない。
 また信仰は、行いを他人に見せびらかすための格好付けでもなければ、ましてや、仲間意識を形成するためのジャーゴンでもない。

 「心の割礼」とは、神から与えられて信じさせられることを指す。有無をも言わさず信じさせられる。
 すなわち信仰とは、人間の行いや努力によって到達するようなものではなく、もっぱら神の主権によっていただくものである。
 この恵みに預かるためには、まずは律法によって罪深さに気付いて苦しみ救われたいと飢え渇くことが大前提であることはいうまでもない。
 言い換えると、私たちは律法によってのみ信仰に追い込まれるのである。

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[一版]2009年 8月22日
[二版]2014年 2月 1日
[三版]2019年 8月18日
[四版]2021年 6月27日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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