悪口を言うイエス

 「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-22)

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 数々のわざがなされた町を責めるイエス。

 神の子イエスも悪口は言うのである。
 おそらくは、コラジン、ベツサイダやカペナウムでの人々の頑なさが悔しかったのではないだろうか。
 さらに、マタイ23章では、パリサイ人達への悪口オンパレードになる。
 悔しさを覚えたり、そのことで責めたり、また悪口というか批判したりするというのは、私たちアダムの肉となんら変わることはない。

 おそらく唯一、全く違うのは、イエスの肉には律法に照らした罪を見いだされないということだ。
 そのような、「罪のない人間」が十字架でいけにえになる。神の赦しを得るためのささげ物である。
 イエスは、正にこのことのために世に来られた。

 そこに至る過程では、肉を持つ者としてイエスも様々な感情を持ち、ときにはそれを隠さなかった。
 なぜなら、イエスは受肉して世に来られ、私たちと同じ肉を持っているからだ。
 つまり、公生涯でのイエスは、性質として我々人間とあまり変わるところはない。
 個人的には、そのようなイエスにこそ親近感を覚える。

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