キリストの死と復活に預かる信仰

 「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:8-11)

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 罪そのものが悪い、というと少し違う。
 律法に照らして罪と判断されざるを得ないアダムの肉、これが糾弾され続けているのである。
 キリストが、人々の罪を一身に受けて、極刑の十字架に死んで、そしてよみがえった。
 罪は処理され、私たちは「キリストとともに生きることにもなる」という信仰に至った。
 それはまさに「私たちがキリストとともに死んだ」からである。

 信仰以前、私たちは、罪の肉を宿し神に対して死んだ者であって、自分を創造したお方から断絶していた。自然界との整合がまるで取れていなかった。
 だが、キリストの死と復活に預かる信仰に至った私たちは、「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」となった。
 神が和解してくださり、その神がお造りになった自然界との整合性がとれるようになったのだ。

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