死にあずかるバステスマ

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

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 上の聖書箇所で書かれている「罪」 ( sin ) は、日本語でいう「罪悪感」とは全く関係がない。
 だからクリスチャン、イコール、品行方正というような偽善者的図式など、ぶっ壊してしまって良い。
 「罪悪感」、「悪いこと」には guilty が当てはまる。
 今ここで扱っているのは、どこまでも sin としての罪だ。
 つまり、アダムの肉が内在する罪、人が人である以上持っている罪のことであって、人様から指さされてどうのこうのということとは関係がない。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。
 これは、悪いことをしてはいけないという意味とは全く異なる。

 sin に気付くや、七転八倒、のたうち回る。
 のたうち回った挙げ句、恵みによって「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」とある、その死にあずかるバステスマによって、イエスと共に死ぬ。
 これが「罪に対して死んだ」ということに他ならない。
 「悪いことをしなくなりました」ということでは、まったくない。
 「どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」、その通りに、 sin は処理された肉と共に埋葬されてしまった。
 そして、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」のである。

 共に死んでくださったイエスによって悔い改めたので、復活のイエスと共によみがえって新しい歩みが始まる。
 外見上、何一つ変わっていない。
 欠点のひとつでも直ったわけでもない。一見全く変わっていない。
 しかし、真のバステスマを受けて、見えなかった重しが取れて新しく歩むことができるようになる。

[付記]

 本日の記事は、
  [初版]2007年 6月 3日
  [2版]2007年 7月 3日

 今回、大幅に加筆修正しました。タイトルも変更しました。

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