死に服する被造物への恵み

 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」(ローマ5:12-15)

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 善し悪しの一線というのは、明確にまたは暗黙の内に種々定められている。
 たとえば泥棒をすれば窃盗罪に当たり、しなければ当たらない。これは刑法という明文化された一線に基づいている。一線を越えたかどうかを判断するのは警察や司直であって私ではない。
 同じように、律法は御父がモーセを通して私たちに与えた一線であり、この一線を越えたかどうかを判断するのは私たちをお造りになり内面までよくご存じの御父であって私ではない。
 「死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配」したのは、この一線が暗黙の内のものであったからで律法違反には変わりはなく、このことはパウロが伝道した異邦人も現代の人々も同様である。

 神が造られた輝かしい被造物はこのように死んでしまっているが、救い主イエスは私たちをこの死からよみがえらせる。
 どのようにして救うのかというと、イエス自身がわざとして示したとおりに死なせてよみがえらせるというによってである。
 この救いはわざではなく恵みにより、そして「神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」。
 律法を通して自分が死んでいると分かった人に与えられる特権である。

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 健やかな一日をお祈りします!

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