いのち/永遠のいのち

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)

---

 いのちのことと、永遠のいのちのことについて。
 ここでいういのちというのは、生物体としての生命ではない。
 死ぬことなしには、永遠のいのちに至ることはないということである。
 死ぬ、とは、十字架のイエスと共に極刑に処せられることであり、そうしてはじめて、イエスと同様によみがえる。

 では、イエスのわざが私たちの中で永遠のいのちという実を結んだら、はたしてどうなるのだろう。
 外観上は、まったく変わらない。
 どうしようもないのは、やはりどうしようもない。
 性格が変わるわけでもなければ、仕事ができるようになるわけでもない。
 病が癒えるわけでもなければ、力がみなぎるわけでもない。
 生き馬の目を抜くようなこの世の世渡りがしやすくなるということもない。

 そうすると、いったい何が変わるのだろうか。
 今までは自分の外側にあった聖書が、自分の内側に据わること、言い換えると、私たちはもはや一人で生きているのではないということである。
 誰よりも心強いお方が、私たちの考えや思いや行動、それらの源のところに一緒にいて下さる。
 このことは、この世を生き抜く上ではあるいは愚かなことかも知れない。
 しかし、自分のこころの中では整合性がついているので、後ろめたいことがない。

 そうなるためには、イエスが型として示すように、死んでこそ真に生きるというプロセスをたどることになる。

---

[一版]2014年 8月30日
[二版]2019年 2月 3日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 神に従うとは 盲目であるこ... »