主を畏れる

 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。
 御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
 主を畏れることは知恵の初め。
 これを行う人はすぐれた思慮を得る。
 主の賛美は永遠に続く。

 ハレルヤ。いかに幸いなことか
 主を畏れる人
 主の戒めを深く愛する人は。」(詩111:9-112:1新共同訳)

---

 上の聖書箇所は、ぱらっとめくれた箇所。
(違う詩をまたがって引用するのも、どうかと思うが。)
 どちらの詩にも「主を畏れる」とある。

 「主を畏れる人」、それは行いの人ではない。
 行わないことを恐れることは、「畏れる」とは似て非なるものだ。
 いや、全く異なる。行いの人が恐れるのは、人の目にすぎない。

 では主をなぜゆえに畏れるのか。
 それは、主は私に「お前は罪を犯した」と告げ知らせ、それどころか、いやが上にもそのことを自覚せざるをえない立場に追い込むからだ。
 そのために主がお使いになる道具が「戒め」、即ち律法だ。
 律法群に追い込まれてここに至ると、もう逃げ場はない。主は恐ろしい。自分の義など、どこにもない。

 ところが、この境遇に追い込むことが(「行い」へと走らせるのではなく)「恵み」へと化す。
 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。」
 すなわち、イエスの十字架というあがないだ。
 このあがないによって、罪赦される。

 「ハレルヤ。いかに幸いなことか
  主を畏れる人」
 このように、罪を赦してくださった方、このお方を畏れる。
 十字架の御業によって、心底助かったから。
 その恵みがあまりに大きかったから。
 「主を畏れる」とは、こういう意味のように今は思っている。

 その人はなおも「主の戒めを深く愛」し続ける。
 戒めを守ることなど、到底無理だ。そのことに心底気付かされて、そうしてあがなわれた。
 だからその人にとっての「戒め」というのは、記念写真のようなものだ。
 なくてはならない大切なものなのだけれども、決して手の届かないもの。
 こうしてここに書いていることが「すぐれた思慮」に基づいたものなのかどうかは、ご判断頂きたい。

 「主の賛美」は、いのちある限り「永遠に続く」。


[お断り]
 本日の記事は、今年6月10日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
  もうすこし「編集作業」は続きます。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 罪の奴隷 罪と恵み »