罪のとげ

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

---

 自分語りをする。

 12年前に教会の門を叩き聖書を読み始めた。
 当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。
 その当時買い物に行ったときのこと、とても可愛らしくてしかも器量の良い若い娘がレジをしていた。
 彼女を見ていて、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」を、即座に思い出した。
 私は今、姦淫の罪を犯したのである。
 この罪のとげは、ことさら痛かった。

 律法がもたらすのは、この罪の意識、罪のとげの痛さである。
 より正確に言うと、律法は、肉に宿す罪を白日の下にさらして私たち自身に突きつける。
 「お前は罪人なのだ!」と糾弾する。
 そうすると、買い物に行っただけでも罪のとげに痛む私などは、どう取り繕おうと神の御前に不義とならざるをえない。
 もし私が律法を、山上の説教を知らなかったら、このような罪の意識自体がわからなかったに違いない。
 そうであれば私にとって、御父もイエスも、十字架も復活も、そして赦しと救いも、まったく無関係だったろう。それを思うとぞっとする。

 このように、律法は私たちの罪深さを嫌と言うほど知らしめるために、必要不可欠なものである。上に書いた自分の経験に照らしても、そう思う。
 そして、この律法がキリスト・イエスによる罪の救いへと私たちを導く。
 律法が養育係(ガラテヤ3:24)たる所以であり、この養育係なしに救われるということ、すなわち罪のとげの痛みを知らない者が救われることは、以上のことから原理的にありえない。

---

[一版]2011年 7月30日
[二版]2014年 2月22日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 律法というフック 値なしの義 »