真理と自由

 「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」(ヨハネ8:30-37)

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 「イエスを信じた」という連中とイエスとの会話(の一部)。
 この連中には、「わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていない」。
 要するに、信じたつもりなだけで、実際にはイエスをかけらも信じてはいない。
 信じるということは、非常に難しい。
 だが、信じる者は真理を知っているので、それでイエスのお言葉がすんなりと入ってきて馴染みがいい。

 そうなるのは何故だろうか。
 「真理はあなたがたを自由に」したからである。
 イエスはここで、「自由」と「罪」とを対置させている。
 アダム以来、人間は罪の奴隷であり不自由な身とされ続けている。
 自由とは、罪の奴隷状態からの解放のことであり、「自由だから何をやってもいいんだ」とかいうこととは全く異なる。
 そしてイエスは、「子があなたがたを自由にする」ためにこの世に来られた。
 罪から解放されて自由になると、人間が本来的に持っていた「いのち」もまた、解放される。
 イエスが与える自由は、「いのち」を回復するのである。
 その自由を得るための真理は、十字架と復活によって、既に与えられているのである。

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