『ホサナ!』と叫んだ群衆が今度は『十字架に付けろ』と叫ぶとは

 「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:20-25)

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 ここに出てくる群衆は、少し前までは「ホサナ!」と言っていた人たちだ。
 しかし彼らは、この世の王である祭司長たちに「バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう」扇動され、実にあっさりと従ってしまう。あるいは、祭司長達の指示に従わないことは難しいことかもしれない。金員の授受もあったかもしれない。
 この流されるだけの人々は、「十字架につけろ」と叫び続ける。
 ピラトが「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と問うたとき、ますます激しく「十字架につけろ」と叫ぶというのだから、もはややりとりとしては成り立っていない。

 この流される人々について、イエスは「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)と言っている。
 「ホサナ!」と叫んだかと思うと今度は逆に「十字架に付けろ!」と叫ぶような、保身のためにその場しのぎで動く人々は、そもそも救いなど求めていない。
 しかし、流されるということは自分がないことであるから、その自分を問われる局面で彼は大きく動揺するだろう。自分をすっかり見失っていることを発見するのだ。
 この、見失った自分を取り戻すということが、すなわち救われるということになる。

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[一版]2018年 8月12日
[二版]2022年 9月10日

 健やかな一日をお祈りします!

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