世の原理と御父の原理

 「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:3-8)

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 イスカリオテ・ユダが何故イエスを売ったのかは、わからない。
 しかし理由はともかく、ユダは裏切り、そしてそのあと、彼は激しい後悔の念に駆られて、祭司長達の元を訪れる。

 しかし祭司長は、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と突き放す。
 使用済みの駒には用はないのだ。
 そして彼らは、「血の代価だから」と、その銀貨で旅人たちの墓地を作る。
 旅人はユダについてのこういういきさつを知らないから、抵抗がないであろう。
 こうやって、旅人達への業績作りまでやってのける。

 この祭司長達のやり方こそ、世の原理のものである。正に世の支配者だ。
 これに対して、救世主イエスは異なる原理にいる。
 世界を創り人を創った御父の原理とでも言おうか。
 御父の原理の元では人はいきいきと生きることができるのだが、祭司長のように世の原理にどっぷり浸かってしまうと、人は死んでしまう。死んではいないのだが、死んでいるのだ。
 このように死んでいる人を御父の原理に生かすため、イエスは今、十字架の道の途上にいる。
 そうとは知らない様々な人が、捕まえられたイエスを軸に動いている。

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[一版]2018年 8月11日
[二版]2022年 9月 6日

 健やかな一日をお祈りします!

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