裏切り

 「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:21-24)

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 この社会に身を置いていると、さまざまな辛いことが襲ってくる。
 わけても、裏切りほど辛いことはないのではないか。
 予め分かっていたであろうイエスですら、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とまで言っている。
 であれば、裏切りにあったときの私たちの辛さはどれほどのものであろうか。

 しかし、まさに「義のために迫害されている者は幸い」なのだ(マタイ5:10)。
 私たちは救われたい。不義な存在ではあっても、義と認められたい。
 このような私たちに裏切りをはじめ数々の試練が襲ってくるというのは、イエスがそうであったのと同じで、当然といえば当然だ。
 もしもこのような試練がないとしたら、それはむしろ御父から見放されているのではないか。

 イエスに話を戻すと、十字架の道を拓く歩みが、この弟子の裏切りによってまさに今始まったのである。

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[一版]2018年 7月30日
[二版]2022年 9月 4日

 健やかな一日をお祈りします!

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