偶像

 「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:19-21)

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 この手紙の最後の箇所。
 唐突に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と記されて、この書物は終わる。
 このことに、長い間大きな違和感があった。

 イエス・神の御子がこの世に来られて、何が一番変わったのだろうか。
 「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったこと」である。
 ただ、誰かれにも、この理解力を与えられたわけではない。
 長血の女の箇所(マルコ5:25-34)でも、イエスに押し寄せる群衆達には何もなく、ただ長血の女だけが癒される。
 両者ともイエスに押し寄せた点では変わるところはない。
 ただ、イエスを御子と信じる信仰があったかどうかが、決定的に異なっていた。
 この長血の女には「真実な方を知る理解力」があったのである。

 この長血の女のような人々は、キリストにある( in Crist )。
 今は見えないこの方だけを信仰し礼拝する。
 そうであればこそ、なおさら「偶像を警戒」する必要がある。
 この偶像はその人をキリストからたやすく引き離してしまうのだ。

 この偶像というのは「像」に限ったものではない。
 私は仏像を見ても何とも思わない。鳥居も寺もそうだ。
 仏壇も神棚もなんとも思わないし、お焼香もする。
 そういうもの自体よりも、そういうものを偶像として警戒せよと指導する人に影響を受けてしまうと、指導を受けた人は「指導する人」という偶像に脆くも屈してしまう。

 大切なことはただひとつ、御子が来られて「理解力」を与えてくださったということである。
 雛人形を偶像礼拝だからというので片付けさせた人間の記事を読んだことがあるが、その人にキリストを理解する力が備わっていないことは明らかである。
 実は私も以前、その手の指導によって仏壇や神棚その他を異様に恐れていた。
 しかし、恵みによって「理解力」を与えられ、それで今は何とも思わないのである。

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[第一版]2007年10月27日
[第二版]2008年 3月 9日
[第三版]2011年 7月17日
[第四版]2020年 2月11日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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