イエスの道筋を共にする覚悟

 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1ペテロ4:1)

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 救いについて。

 罪のない神の子イエス・キリストは、自ら極刑の十字架に苦しみ肉を殺し、そして三日目に復活した。
 このわざによって、イエスは救いの道を拓き、救いの型を示した。
 私たちのような罪深い者であっても、イエスの道筋をたどることによって、罪のない者と認められて、解放され救われる。
 ただ、この狭い道に、どうやれば入ることができるのだろうか。
 気付くとすとんと入っている。それこそが恵みなのである。
 イエスと同じ苦しみを味わい続け、それは極限に達し、そして生まれ変わる。

 そのためには、心構えも武装も実はいらない。
 私たちは、この狭き道を防具なしで歩むのである。自分に死ぬ道なのに、その上なぜ自分を守ろうとするのだろうか。
 むしろ、必要なのは覚悟なのであり、上の聖句はそのことを武装と言っているのだろう。
 イエスの道筋を歩み、イエスの杯を飲んで、今までも今後もないほどの苦しみを通り抜けるという覚悟である。
 だから、フォークギター片手に「イエスは王」と歌っているのには、個人的には大きな違和感を覚える。

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[一版]2015年 9月20日
[二版]2020年 1月 6日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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