イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
神のうちにいる
「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:3-6)
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「神のうちにいる」とは、神の側により分けられたということ。聖別されたということ。
そのようにより分けられると、本人の意志とは関係なく、あのイエスの狭い道を歩むことになる。
十字架と復活の、救いへと至る狭い道のことだ。
そして、真理がその人の内にあること、また、神の愛が全うされるというのは、もともとのものではなく、救われた結果なのである。
すべての始まりが命令、みことばを守ろうとすることにあることは確かなことだ。
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[一版]2018年 8月30日
[二版]2020年 1月13日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:3-6)
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「神のうちにいる」とは、神の側により分けられたということ。聖別されたということ。
そのようにより分けられると、本人の意志とは関係なく、あのイエスの狭い道を歩むことになる。
十字架と復活の、救いへと至る狭い道のことだ。
そして、真理がその人の内にあること、また、神の愛が全うされるというのは、もともとのものではなく、救われた結果なのである。
すべての始まりが命令、みことばを守ろうとすることにあることは確かなことだ。
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