挑発

 「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。
 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:21-24)

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 イエスは安息日に人を癒し、激しい反発を招く。そのことについて。

 イエスはここで、安息日について、また割礼について言いたいのではない。
 そういった神が授けた律法群について、人々が自分たちの都合に合わせて勝手な解釈を施して適用してしまうということを言っている。
 安息日をてこに、人々を挑発しているのだと思う。
 「正しいさばきをしなさい」と言っているが、正しいさばきができるのが神おひとりであることも重々承知で言っているのだろう。

 律法という神の秩序を罪ある人間が完全に守ることは、到底出来ない。
 律法を意識すればするほど、肉の罪はいよいよ明らかになり、その罪の中に人は死ぬほかなくなる。
 私たちをこのように死に追い込むことこそ律法の役割であり、極刑に死んだイエスの復活の道によって、私たちもよみがえって罪赦される。
 これが、神の赦しを得るためにイエスが切り開いた道である。

 ところが上の聖書箇所の人たちは、律法を守ることそのものが善行だと考えている。
 それどころか、人の上に立って人に重荷を押しつけてさえいる。
 安息日には何もしてはいけない等。
 いや律法とは(モーセとは)そういうものではない、と、イエスは人々を挑発する。
 その挑発は、一人でも多くの人々が肉の罪に気付いてそこから救われるために他ならない。

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[一版]2011年 1月 3日
[二版]2017年 4月 9日(本日)

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