忍耐ということ

 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
……
 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:58-60,65-66)

---

 去っていった弟子たちは、イエスに従うという行為によって「いのち」を得ることができると思っていたのだと思う。
 ところが、ここでイエスが言ったのは、御父の御心による恵み、天からのパンに預かる恵みについてであった。行ないではなく恵みであるというのは、イエスがここで言うとおりの意味である。
 この去っていった弟子たちは、こう思っただろう。「こいつについて行ったって、何もないんだってさ!」。

 では、私たちは何故それでもイエスにつき従うのだろう。何の役に立つというので聖書に接するのだろうか。
 それはもちろん、私たちが救いを求めているからだ。
 イエスは私たちをあわれんで、私たちのもとを訪れてくる時が来る。それが天からのパンなのである。
 わざではなく恵みによってなのであるから、恵みにあずかるまで忍耐強く待つ必要がある。
 去っていった弟子たちは、この忍耐が足りなかった。

 イエスとの出会いに必要なものは、行ないではなく、恵み、そしてその恵みを待つ忍耐である。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )