罪をあぶり出す律法

 「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ7:13-17)

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 山上の説教でのような厳格な解釈をほどこした律法、そのどれ一つでも、人間は守ろうと思っても守ることができない。そもそもその山上の説教は、その守れないということを言っている。
 この律法とは、もっぱら肉の罪をその人に指弾するために存在する。
 では、律法などそもそも守ろうと努力する必要はないではないか、というと、そうではない。
 むしろ、罪を自覚するためにこそ、律法をどこまでも追い求める必要がある。そうしてこそ、アダムの中で「罪として明らかにされ」るのである。
 そのときに私たちは、「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている」との思いに駆られ、それが救われたいという切実な思いにつながってゆく。
 律法は罪を浮かび上がらせ、イエスによる救いを求めさせるための「養育係」(ガラテヤ3:24)なのである。

 だから、自分は律法を遵守できていると思っているとしたら、その人は自分に罪を認めないのであるから、救われるためのとっかかりがない。
 律法を遵守していると言い張るパリサイ人、律法学者とイエスとが対立するのは、当然のなりゆきであった(マタイ23章参照)。
 逆に、よく「私は罪人です」とこぼす人は、なにゆえに自身を罪人だと思うのだろうか。

 「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです」。
 律法が罪をえぐりだすのであるから、「律法は良いもの」なのであり、そしてアダムは、律法があぶり出したその罪に死ぬ。
 罪なきイエスは、身代わりに極刑の十字架に掛かって下さっている。
 そのイエスが復活したように、罪に死んだ人もまた、イエスと同じ道を通って、赦されて復活するのである。

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[一版]2009年10月25日
[二版]2015年 5月24日

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