律法は罪なのでしょうか

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:7-12)

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 「律法は罪なのでしょうか。」というのは、律法によって自罰の念にかられるのだから律法こそが悪いのではないか、くらいの意。
 しかし律法に非があるのではなく、私たちの肉に非があることを律法は指摘してくれているのである。
 律法を知らなかった頃、私たちは好き勝手に暮らしていて、そのことを何とも思わなかった。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」とあるとおりである。
 そして、その好き勝手ぶりが神の秩序に反し神の怒りを買い続けていること自体、知りもしなかった。
 この神の怒りに気付かせてくれるのが、神の完璧な秩序たる律法である。
 律法という神の基準が、私たちの内に潜む肉の罪をあぶりだす。
 私たちの肉に内在するあらゆる罪が、律法によって容赦なく指弾されるのである。
 この罪深さの自覚が苦しいので、「律法は罪なのでしょうか。」とも口から漏れる。
 まさに「戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」のだ。

 神との良好な関係を志そうとする私たち、それによって、神との平和を得て救われたいと願う私たちは、どうしてもこの罪深い肉が処理される必要がある。
 肉の処理、その初穂が、罪なき人であるイエスの十字架であり、私たちはそのあとを恵みによってついてゆけばよい。復活もまた、イエスに続くことになる。
 律法が私たちに肉の罪深さを自覚させ、そのあまりの罪の重さにイエスの死と復活に預かるのであるから、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」というのは、まさにその通りなのである。

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[一版]2011年 9月25日
[二版]2015年 5月17日(本日)

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