恵みと律法

 「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
……
 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:15,23)

---

 律法とか恵みとかとは、そもそもなんであろうか。
 それらは共に、神が差し伸べた救いの手だてに他ならない。
 アダムの肉を持つ罪深い人間を、その肉から救うためのものである。

 律法は、罪の基準であり、神の完全な秩序の体現である。
 キリストが十字架に架かった後であっても、人に罪を自覚させるのは、この律法だけなのである。
 罪の自覚をもたらすのが律法であれば、救いをもたらしたのが、イエスの十字架そして復活である。
 言い方を変えると、律法という「てこ」なしには、アダムの肉から救われようとする動機そのものが生じないのだから十字架にすがろうともしないだろう。

 この十字架そして復活は、ロマ書6章で、死んで生きる、という言葉で繰り返され(例えば7節)、この、死んで生きるということが、恵みによる救いの手段である。
 ここにいう恵みとは、上の聖句に言う「神の下さる賜物」に相当するので、恵みの主権は神にあり、人間の好き勝手とは全く関係がない。
 だから、「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」というのは、恵み、という言葉を完全にはき違えている。
 そもそも律法と恵みとは、対立する概念ではないのである。

 この恵みによって救われてもなお、私たちはアダムの肉のままであり、律法を守り行えないことにはかわりはない。
 ただ、恵みによって死とよみがえりを通り義とみなされたということが全く異なり、そのことが救いであり、よみがえりであり、永遠のいのちなのである。
 好き勝手とは全く違う真の自由が、神との和解の中で実現するのである。

---

[一版]2009年10月12日
[二版]2015年 5月 5日

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )