イエスを否むペテロ

 「大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:26-27)

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 多くの人に有名な聖書箇所。

 ヨハネ福音書には書いていないが、鶏が鳴いたときにペテロは激しく泣いている(マタイ26:75)。
 師であるイエスを否定し結果的に裏切ったという悔いの気持ちであろうか。
 イエスの言ったことを思い出して、自分を恥じているのであろうか。
 そういうことをみな含めて、いろいろな気持ちがないまぜになって、それで号泣しているのかもしれない。

 もしも私がこのペテロの立場にあったとしたら、ペテロと同様、やはりイエスを否定する。何度でも否定する。
 もしイエスの弟子だなどと正直にいったものなら、どうなるか明らかではないか。
 我が身はかわいい。しかしこれは、人間の肉の弱さの部分である。

 イエスはこれから十字架に架かって死に、三日目によみがえる。
 イエスを信じる人々の罪、すなわち肉の弱さに御父の赦しを与えて「いのち」を与えるためである。
 そのことを信じる私たちは、この肉の弱さを赦されている。律法を守れない弱き肉であっても、義とみなされている。

 イエスはペテロのこの裏切りを、あらかじめペテロに予言している。
 ペテロであろうが私であろうが、誰であろうが、捕らえられたイエスを否むであろうことは、私たちの肉の弱さからして容易に予想が付く。
 だから、イエスのあの予言は、否むであろうペテロを責めたのではなく、むしろペテロの弱さを赦したものではないだろうか。
 ペテロの号泣は、もしかすると、その赦しに気付いたからなのかもしれない。

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