信仰を与えられるということ

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 信仰とは、自分で取得する類のものではなく、信じさせられるものだ、このことを何度か書いてきた。上の聖書箇所も、その信仰についてである。

 まず、弟子たちは「あなたがわたしを遣わされたことを知りました」、つまりイエスが知らせたから弟子たちはイエスを神と分かった。自分自身で分かったのではない。
 神性ということについて、頭の中であれこれ考えをめぐらしてみても、それはどこまで行っても机上の空論の域を出ないことが明らかである。
 イエスは恵みによって、私たちにお会い下さる。そのときに私たちはその神性を悟らざるを得なくなる。サウロ(パウロ)を思い起こせば、このことは明らかだ。

 また、そのときに神の御名が知らされる。
 これも字義通りに受け取るべきではない。「ヤハウェ」という名詞を知っていても、それ自体は何の意味も意義もない。
 そうではなく、神の実在と統御、これをイエスを介して遂に認めざるを得なくなるのである。

 神の愛とはこのイエスがお会い下さることを言うのではないだろうか。なにしろ私たちはこのときに罪赦されて世から救われるのだ。

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