御父や御子と共にあるアダム

 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

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 内住された精霊のはたらきについて。

 私たちは、それによって何かを教えられたり、また、思い出したりするわけではない。
 むしろ、それと同じように感じ、思い、動くようになる。
 それは、いやいやなのではなく、内側からにじみ出てくる自然な営みなのである。
 そうであれば、この精霊の内住によって、私たちは変えられたということになる。
 それも、見栄えが変わるだけですぐに剥離するメッキとは違って、全体が変わる。

 そのように変えられて、なにかいいことがあるだろうか。
 世渡りがうまくなるわけではない。むしろ下手になる。
 善人になるわけでも、倫理的に優れた人間になるわけでもない。そのようなことは、メッキを見せびらかしたくてやることだ。
 言うなれば私たちは、違反の前のアダムに戻るのである。
 違反の前のアダムといったら、何も変わっていないように見える。
 しかし大きく異なる点がある。それは御父から罪のある身とみなされないということで、そこには大きな平安がある。
 私たちは、御父や御子と共にあるアダムなのである。

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