やみと光

 「イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」(ヨハネ12:35-36)

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 「やみ」と「光」。
 これは、処世術についてのことではないし、成功や失敗といったことでもない。

 「やみ」とは、ここでは神を見いださないこと。
 何をしよう、とか、何をすべきかということについて、明確な信心がないとしたら、その人は一体何を頼りに歩んでゆくのだろうか。
 たとえばカネが原動力という人は少なくないが、それが「やみの中を歩く者」に当たる。
(思うに、カネは必要悪なのではないだろうか。)

 対して、「光」とは神であり、神と共にいるということである。
 その方向に向かって歩めば、心の平安、平穏、満たされる、そういった観点からは間違うことがない。

 どちらの方に価値を置くかは、人それぞれかもしれない。
 しかし、人間は頭や認知だけで生きているのではないのだから、唯物的な世界観では参ってしまうのではないかと思う。
 そしてそのように参ってしまった者が、光の方をみやる。
 復活のキリストは、今も聖書を通して光り輝いている。キリストは、その人を見捨てることは決してしない。

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