主客転倒

 「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:41-44)

---

 イエスが死んだラザロをよみがえらせる。

 その前にイエスは宣言する。「この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために」。
 イエスの目的は、自身の神性の証明にあるのである。ラザロは、そのための手段という位置づけになる。
(もっとも、イエスがラザロを愛していたというのは大きい。)
 ラザロのよみがえりそのものが目的なのではない。

 各福音書には、数々のイエスのわざが紹介される。
 そのどれもが、イエス自身の神性を証明することが目的だ(たとえばマタイ16:11)。わざそれ自体が目的なのではなく、手段なのである。
 もしも大勢の病人をいやすために来られたのだとすれば、イエスは誰にも優る名医として「治療」に専念すればよく、たった3年世にいただけであの十字架に架かる必要も動機もない。
 そうではなく、神が人となって現れたこと、救世主がやってきたということを、イエスは悟って欲しいのである。

 私たちが聖書を読むのは、御子イエスに出会うためである。
 それを悟らせようと、イエスは様々な手段を駆使している。
 そのことについて主客転倒してしまうと、イエスとは誰なのかがまるで分からなくなる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )