卑小化された律法

 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」(マタイ15:3-6)

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 イエスに抗議するパリサイ人に対するイエスの反論。

 律法を遵守することはきわめて難しい、または不可能だ。
 そこでパリサイ人達は、勝手な例外規定を設けて肉でも遵守できる程度にまで律法を卑小化してしまった。
 だが、その卑小化されたものを守ったからといって、彼らは救われただろうか。
 自分たちで定めた規則を守れたというのは、単なる自己満足にすぎないのではないだろうか。

 律法を真の意味で、特に山上の説教でイエスが説いたような意味で遵守することは、人間には不可能だ。
 なぜなら私たち人間が持つ肉が、律法の遵守を妨げるからである。
 そのとき、その律法が私たちの肉を罪に定める。
 私たちが罪人であるという認識、悔い改めは、自分勝手に卑小化した律法解釈からは出てこない。守れること自体が目的なのだから。

 それでイエスは、このことでパリサイ人に反論している。

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