律法と回心

 「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)

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 なぜ「私は、ほんとうにみじめな人間」なのだろう。
 それは、律法(「心の律法」)によって照らし出された罪の肉(「罪の律法」)に絶望してしまったからである。
 「この死の、からだ」とまで、思い詰め、憔悴しきってしまう。

 しかし続いて、唐突に「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」とくる。
 この唐突な変化が何であるのかというのは、行間に書かれている。
 行間とは、主イエスの恵みが回心へと導き、「この死の、からだから、私を救い出してくれ」た、ということだ。
 回心でも新生でも、ことばは何でもいい。
 それを経て「いのち」に預かるので、このことは新約聖書の核心なのだ。

 回心を経て、「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法(「罪の肉」)に仕えている」という地点に立つ。
 アダムである以上、律法を喜びつつも罪から逃れることはできない。
 だが、主キリスト・イエスを通して神から罪赦されているので、その肉の罪が責められることがない - これが「いのち」であり自由であり救いである。

 「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と憔悴しきるまでに追いつめられるならば、その人は神から見放されてはいない。
 その道は、既に十字架のイエスが通っている。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

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