先日、エゾシカを研究している方とお話をする機会がありました。
エゾシカは、今や増えすぎて農業被害はもちろんのこと、アニマルアタックと言って、道路に飛び出してくるシカのために車両の損傷やシカを避けようとして対向車線にはみ出した結果交通事故で死亡するといった悲しい事故も誘発し、大きな社会問題になっています。
北海道の適正なシカの数は10万頭と聞いたことがありますが、ピークだった平成22年度の推定生息数は66万頭にもなりました。
そしてそれらがにじみ出てくる林縁部の農地では農業被害も甚大で、特に人口が減って高齢の農業者にとっては離農せざるを得ない大きな原因にもなっています。
ただ歴史を振り返ると、明治以前は本当にたくさんのエゾシカがいた記録が残されていますし、アイヌの人たちの主要な獲物であったということも残されています。
エゾシカは肉や毛皮をもたらしてくれる、アイヌの人たちにとっては特別な存在でした。エゾシカはアイヌ語で「ユク」と呼ばれ、これには「獲物」という意味もあったのだそう。
シカにちなんだ地名としては、かつて「鉄道員(ぽっぽや)」という映画撮影の舞台となり、また昨年は大きな豪雨災害を受けた幾寅(いくとら)が有名です。
これは、幾寅の街のすぐ脇を流れる「ユクトラシュベツ川」が地名の由来で、アイヌ語では"yuk-turasi-pet" で「鹿・それに沿って登る・川」といった意味なのだそうですよ。
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さて、明治期に入ると北海道に和人が入り込み、エゾシカの乱獲が始まります。
1873年から1878年にかけての6年間で捕獲されたエゾシカの総数はなんと57万4千頭にもなり、年間で6万頭から13万頭が捕獲されたことになります。
その多くはシカ皮を輸出したり角は中国へ、肉は缶詰にしてアメリカへ輸出されたのだとか。
その結果シカは大きく数を減らしたところへ1879年に異常な豪雪が北海道を襲い、多数のエゾシカが死に、まさに絶滅寸前まで追い詰められました。
エゾシカの生息数が激減した結果、オオカミが今度は家畜を襲うようになり、開拓使は毒餌などによるオオカミの捕殺を行い、結果として1890年までにオオカミは絶滅したと考えられています。
そこで開拓使はエゾシカ保護に動き、1890~1900年にかけて禁猟としたものの、豪雪や密猟で数はなかなか戻らず、その後1920~1956年にかけても禁猟が続きました。
戦後、この禁猟の措置と同時に、オオカミが絶滅していたこと、また平野部の森林が農耕地化されたことなどが功を奏し、エゾシカは数とともに分布を拡大させました。
農業・林業被害は禁猟が解けても1975年度の5千万円までは大きな増減もなく推移していましたが、1976年度に1億円を超えて以降急速に増加します。農業被害は1988年度に10億円を超え、1996年度には50億円でピークとなりました。
1998年度以降、北海道庁では「道東地域エゾシカ保護管理計画」を策定し、やがて2000年度には「エゾシカ保護管理計画」を策定して計画的管理に努めていて、平成22年度以降、5年間にわたる緊急対策期間を経て、推定生息数は47万頭にまで減ったという調査がなされています。
しかしこの対策も、増えすぎてしまったシカに対して大きな対策費を打ってこその成果です。
しかもこの間、メスジカを二年間休猟にしたことが爆発的増加に追い打ちをかけたという研究者もいます。
エゾシカ問題は、対策が後手に回った結果、後の世代に大きな負債を残したものと評価されるのではないでしょうか。
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翻ってわが道路舗装の問題です。
こちらも適切なタイミングで補修や修繕を行っていれば軽微な予算で機能を保持することが可能なのですが、目先の予算がないという理由で問題を先送りしていないでしょうか。
軽微な段階の傷みを軽んじることで、補修すべき痛みの範囲は横に広がり、しかも舗装の上層部だけではなく基層や路盤というより深いところにまで痛みは広がります。
目先のことにとらわれると後の世代の負債が増えるというエゾシカの教訓。
同じ轍を踏むことはないはずです。もっと声を上げていきましょう。