今日も良い暑さが続いています。札幌は八日連続で真夏日だとか。大通公園ビアガーデンの売り上げも絶好調とか。大通りは明日までですよ。
【『アイヌ人物誌』を読む】
夏は日陰で読書が良いですね。書くネタに困ったときは本の紹介でまいりましょう。
今日は『アイヌ人物誌』(松浦武四郎著 更級源蔵・吉田豊訳 平凡社ライブラリー 税別1300円)のご紹介です。
松浦武四郎のことを一言でどう言い表したらよいのでしょうか。江戸末期の探検家、冒険家、エッセイスト、ヒューマニスト…。様々な側面を持っている彼の人となりを知るには、やはり彼の膨大な書物に直接触れるのが一番なのだろうと思います。
本誌は松浦武四郎の原書「近世蝦夷人物誌」を元に現代語訳をして読みやすくしたものです。
彼の探検家としての側面は、それまで和人にはほとんど沿岸部しか知られていなかった蝦夷島に渡り、5回にわたって内陸部まで道のない山野に分け入って多くの日誌を著し、この辺境の島の姿を世に紹介したことにあります。彼の探検家としての興味は樺太にまで及んでいます。
また冒険家としての側面は、寛政元年に千島で起こったアイヌ人による蜂起のいわゆる「国後の乱」の後に、御用商人の船に水夫(かこ)として潜り込み、国後、択捉の二島について「こここそロシア(紅夷赤狄)と接する孤島であるので、一番の要と考えるべきである」というように千島の実情を聞き書きではなくその目で見ていることに現れます。
エッセイストとしての側面は、精力的に書かれた多くの日誌で明らかですが、その中身には彼独特のヒューマニズムに溢れていて、特に江戸末期の蝦夷島で虐げられていたアイヌの人々に対する暖かい眼差しとと共に、逆に極悪非道の限りを尽くした当時の蝦夷の為政者に対する厳しい批判の筆はとどまるところを知りません。
当時のアイヌと和人の貿易は、始めは藩士による物々交換で行われていたものが、その権限を商人に「場所請負制度」として委託した後からおかしなことになり、アイヌの人たちの社会に混乱と悲しみをもたらしました。
彼は、アイヌの村の男達は魚の捕れる漁村へ駆り出され、結婚も出来ず、村の人口が激減している事に対して、地元のアイヌの声を紹介して痛烈に批判しています。
そうして逆に、旅の途中で多くのアイヌ人を訪ね、豪傑談や孝行談を聞き出し、アイヌの人たちの天性のうるわしい性質を書き記す事で、現地の和人達の暴虐をあぶり出しています。
この原稿が出来たときにある人がこれを読んで「この書物は三分の一が蝦夷地の地理、三分の一が人物記録、そして、あとの三分の一はあなたによる(和人の行動に対する)悪口ですな」と言ったのだそうです。
それに対して武四郎は「その最後の三分の一は、私を憎むものにとっては悪口、賞賛する人からは立派な志を抱いたものと思われる事でしょう。また、これがお上の目に触れれば、お上への恨みごととされることでしょう。いずれにせよ、この三つの見方があります」と答えたのだそうです。
お上への恨み言と取られる事を敢えて恐れずに、反骨のヒューマニズム精神を持ち続けた男、それが松浦武四郎なのです。
蝦夷島をその雅号「北海道人」から北海道と名付けたのも松浦武四郎です。
北海道に住むものとしては読んでおきたい教養の一書です。
【『アイヌ人物誌』を読む】
夏は日陰で読書が良いですね。書くネタに困ったときは本の紹介でまいりましょう。
今日は『アイヌ人物誌』(松浦武四郎著 更級源蔵・吉田豊訳 平凡社ライブラリー 税別1300円)のご紹介です。
松浦武四郎のことを一言でどう言い表したらよいのでしょうか。江戸末期の探検家、冒険家、エッセイスト、ヒューマニスト…。様々な側面を持っている彼の人となりを知るには、やはり彼の膨大な書物に直接触れるのが一番なのだろうと思います。
本誌は松浦武四郎の原書「近世蝦夷人物誌」を元に現代語訳をして読みやすくしたものです。
彼の探検家としての側面は、それまで和人にはほとんど沿岸部しか知られていなかった蝦夷島に渡り、5回にわたって内陸部まで道のない山野に分け入って多くの日誌を著し、この辺境の島の姿を世に紹介したことにあります。彼の探検家としての興味は樺太にまで及んでいます。
また冒険家としての側面は、寛政元年に千島で起こったアイヌ人による蜂起のいわゆる「国後の乱」の後に、御用商人の船に水夫(かこ)として潜り込み、国後、択捉の二島について「こここそロシア(紅夷赤狄)と接する孤島であるので、一番の要と考えるべきである」というように千島の実情を聞き書きではなくその目で見ていることに現れます。
エッセイストとしての側面は、精力的に書かれた多くの日誌で明らかですが、その中身には彼独特のヒューマニズムに溢れていて、特に江戸末期の蝦夷島で虐げられていたアイヌの人々に対する暖かい眼差しとと共に、逆に極悪非道の限りを尽くした当時の蝦夷の為政者に対する厳しい批判の筆はとどまるところを知りません。
当時のアイヌと和人の貿易は、始めは藩士による物々交換で行われていたものが、その権限を商人に「場所請負制度」として委託した後からおかしなことになり、アイヌの人たちの社会に混乱と悲しみをもたらしました。
彼は、アイヌの村の男達は魚の捕れる漁村へ駆り出され、結婚も出来ず、村の人口が激減している事に対して、地元のアイヌの声を紹介して痛烈に批判しています。
そうして逆に、旅の途中で多くのアイヌ人を訪ね、豪傑談や孝行談を聞き出し、アイヌの人たちの天性のうるわしい性質を書き記す事で、現地の和人達の暴虐をあぶり出しています。
この原稿が出来たときにある人がこれを読んで「この書物は三分の一が蝦夷地の地理、三分の一が人物記録、そして、あとの三分の一はあなたによる(和人の行動に対する)悪口ですな」と言ったのだそうです。
それに対して武四郎は「その最後の三分の一は、私を憎むものにとっては悪口、賞賛する人からは立派な志を抱いたものと思われる事でしょう。また、これがお上の目に触れれば、お上への恨みごととされることでしょう。いずれにせよ、この三つの見方があります」と答えたのだそうです。
お上への恨み言と取られる事を敢えて恐れずに、反骨のヒューマニズム精神を持ち続けた男、それが松浦武四郎なのです。
蝦夷島をその雅号「北海道人」から北海道と名付けたのも松浦武四郎です。
北海道に住むものとしては読んでおきたい教養の一書です。
そのため散策中です。偶然、こちらのページがみつかり拝読。
平凡社版で、お書きになったことがあったようで。
時機を失して読ませていただき、とても失礼いたしました。(佐藤宥紹)
コメント少々。そのつもりが