先日、北海道アスファルト協会50年史が送られてきました。
北海道において先人たちが道路を良くしようと、アスファルト舗装を積み重ねてきた努力の歴史が刻まれています。
この冊子の巻頭に提言として北海道科学技術大学教授の亀山修一教授が文章を寄せられているのですが、このなかに「技術的無意識」という言葉がありました。
亀山先生自身も國學院大學の中川雄大先生の執筆されたコラム「アスファルトを歩くー社会現象としてのアスファルト舗装」を引用されて、舗装がファッションを変えたとおっしゃいます。
中川先生のコラムには「(関東大震災後の)帝都復興事業に伴うアスファルト舗装の普及によって、それまでは晴れには下駄、雨にはゴム長靴を履いていたのが、天気に関わらず靴を履くようになった」とありました。
そこから亀山先生は、雨の日でも泥がはねない道路環境になったことで、私たちは現代ファッションを楽しめているといえるのではないか、また物流が発達して日本中どこでも新鮮な野菜や魚介類が味わえるのも舗装のお陰だろう、とおっしゃいます。
そしてそうありつつも、中川先生によれば「こうした人々の生活を支える重要な技術だが、普段の生活では私たちがその技術(に気づかず)を素通りしてしまうことを『技術的無意識』と呼称されている」とおっしゃっているのだそう。
亀山先生はそれを踏まえて、舗装について社会的関心をもってもらうには、舗装がどのように社会を変えたかという視点での舗装の歴史を、物語としてかたるのが良いのではないか、とおっしゃいます。
確かに道路利用者の関心が高まれば、今の舗装の状況や維持管理への声が広がることが期待されるでしょうし、またそうあってほしいものです。
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しかしながら現実にはそれはかなり難しそうです。
同様の技術的無意識の例は枚挙にいとまがありません。
たとえば電化製品やスマホなどの通信機器一つをとっても、昔から見ると格段に進歩していますが、それとても今ではごく当たり前に使われていて、感謝の思いとなると乏しいのだと思います。
ただそれ以上に、スマホなどに関しては利便を享受するために対価が発生しています。
その便利を味わうためには利用料金を支払っているという関係性です。
なので利便を味わいたくなければ契約をしなくてもよいし、なんなら古い機種をいつまでも使うという自由もあります。
使えば使うほど多くの対価を払うからこそ、便利さの進化には感度が高くて機種やキャリアを選んで自分で選択をすることができます。
ところが道路や舗装には対価を払うという関係性がありません。
高速道路のようにさらにワンランク上の利便を受けようと思うと対価を払うという選択肢もありますが、身近な道路を使うためのお金を払っているわけではありません。
以前は車に乗るということはガソリンを消費することだ、ということからガソリンに税金をかけてそれを道路整備に充てるという特定財源が豊かな時代もありました。
しかしそれも一般財源化されてしまい今では財政全体の中からの配分を受けるしかありません。
さらには、自動車が道路を走っていながら電気自動車となるとガソリンを消費するわけではないので税金を払わずに道路を利用しているという形にもなっています。
このように利便に対して対価を支払う関係にない多くの公共インフラはそれを国民が自ら支えているという意識を生み出すのが難しいと言えるでしょう。
それを言うと社会保障もそうなのですが、自らの利益のために負担を行うという関係性をもっと見えるようにしなくてならないようです。
時代は変われど、そのことには変わりはないのです。