北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

肥桶に盛った飯

2011-05-23 23:45:37 | Weblog
 朝一番に札幌での打ち合わせが突然必要になったのですが、今週の中で札幌往復の時間を取れるのは今日の午後だけ。

 相手のアポを確認しつつ、既に今日予定されていた事項を全て先送りかキャンセルして、午後一番のHACで丘珠空港へ飛んできました。いざというときに飛行機のような高速移動手段は実に頼りになります。

 願わくば、HACの経営が早期に安定して新しい機体を増やして便の融通をさらに利かせて欲しいものです。


      ※     ※     ※     ※     ※


 それにしても、これだけネットや通信技術が発達したとしても、最後は直接会って、細かいニュアンスまでを会話の中で伝えなくてはならないというのは、情報というものの質を考えさせられます。

 言葉は文字にできるけれど、文字だけや声だけでは伝わらない全体の価値みたいなものは、どんな時代にも残ることでしょう。

 情報が、「人が考えていることを人に伝える」という事である限り、発するのも人間であり受け取るのも人間だということは普遍です。そしてだからこそ発する人間の人間性と受け取る人間の人間性が交差するところでもあるということ。

 そしてもう一つは、互いの人間同士の関係性の問題。

「ほかの人に言われても聞く気にならなかったけれど、あなたに言われては仕方がありませんね」

 そう言ってもらえるためにどれだけの努力と時間をかけた「信頼」が必要なことか。一度信頼を失った人の言葉はもう聴衆には伝わらないのです。


   【伝えると伝わるは別のこと】



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 私が敬愛する二宮尊徳のお話の中に、尊徳のところに居候として転がり込んできた儒者のお話があります。

 その者は、自分が学んだ儒教の教えを人々に説いて回っていたのですが、そのもの自身は大酒飲みで放蕩無頼が目に余るようになっていました。

 そして次第に人々の心は離れていき、誰もその者の教えを受けようとはしなくなりました。 

 その様子に当の儒者某は怒り出し、尊徳先生に対して「先達の教えは尊いものだ。誰が述べたとしてもその価値に変わりはないのに、皆私の話を聞こうとはしない」と不満をぶちまけました。

 すると尊徳先生は、「そこに肥桶があるだろう。いくら洗ったところで、それに盛られた飯を食べる奴はいまい。飯は飯で食べられるものだ。しかしそれが何に盛られているかで食べたくなることもあれば、食べたくはないと思うこともあるものだ。そうではないか」と諭したとのこと。

 翌日、その者は恥ずかしさのあまり尊徳先生の下を離れていったそうです。

 言葉を発する自分が肥桶であるか、漆の碗となりうるか。

 普段の自分の姿は多くの人に見られています。 もって自戒すべし。
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