北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

蝦夷地にとっても大恩人、「高田屋嘉兵衛の全て」を読む

2024-02-27 22:22:45 | Weblog

 

 今年の6月に釧路で「第34回北前船寄港地フォーラムinひがし北海道・くしろ」が開催されます。
 北前船と言うと、大阪や関西から瀬戸内海~日本海沿岸~蝦夷地(北海道)を結んだ主に日本海側の交易手段だったように思いがちです。

 しかし実は日本海沿岸のみならず、歯舞・色丹・国後・択捉や樺太までを含んだ北方の海を舞台にダイナミックな活動をしていた歴史があります。

 そして時は17~18世紀、この頃にロシアが東進~南下政策で、北方四島や樺太、蝦夷地の周辺に出没をしてきます。

 1792年にはアダム・ラクスマンが根室に来航して国交と通商を求め、うやむやにしているうちにラクスマンはなぜか帰国。

 この時はごまかせたものの、1804年にはレザノフが大黒屋光太夫を引き渡すという名目で来日し、開国と通商を迫ります。

 このときも江戸幕府は引き伸ばし作戦でさんざんじらした挙句にゼロ回答。

 怒ったレザノフは部下のフヴォストフに樺太と国後島を襲わせ、日本側の守備隊に死者も出る乱暴狼藉を働きました。

 さすがにこれには頭に来た日本が今度は択捉島にやってきたロシア船ディアナ号のゴローニンを捕縛し松前の牢屋に送り込みました。いわゆる「ゴローニン事件」であります。

 これに驚き、艦長ゴローニンを取り戻したいと考えた副艦長リコルドが仕返しとばかりに捉えたのが北前船で北方の島々への航路を開いた高田屋嘉兵衛でした。

 高田屋嘉兵衛は並みの商人ではなく肝の座った男で、日本を代表してこの事件解決に努力します。

 まずはリコルドとの信頼関係構築に成功し、さらにはフヴォストフの狼藉は個人の犯罪でロシアとしては関わっていないという詫び証文をとりつけ、これを使ってゴローニンをリコルドのもとへ解放し、戦争になったかもしれない日露関係を取り持つ大立ち回りを演じたのでした。

 作家の司馬遼太郎は、「もしもタイムマシンがあれば会ってみたい一番は高田屋嘉兵衛だ」と公言するほど心酔し、「菜の花の沖」という小説を著しています。

 
 私も蝦夷地を戦争から救った高田屋嘉兵衛は北海道にとっても大恩人の一人と信じる一人で、関西旅行の折には淡路島にある高田屋嘉兵衛記念館を訪ねてきたほどです。

 
 今回は縁あって北前船フォーラムの関係者から「高田屋嘉兵衛の全て」という本を借り受けて読んだのでうが、改めて彼が北海道に対して、特に函館に対して果たした功績の大きさを改めて知りました。

 しかし最近は函館に行っても、石川啄木や新選組の土方歳三などは観光のコンテンツとしてもてはやされている一方で、高田屋嘉兵衛の話が相対的に軽んじられているような気がして仕方がありません。

 ウクライナ問題が影響してロシアとの関係も決して良好とは言えませんが、200年ほど前にはこんなことがあって、高田屋嘉兵衛が活躍したということを知っておきたいものです。

 
 なお、松前に捉えられたゴローニンは帰国後に「日本幽囚記」という本を書き人気を博したのですが、岩波文庫でも訳されたものがあって先の司馬遼太郎は「日本人はこういう良い本を読まなくてはならない」と言っています。

 囚われの身でありながら、憎しみや恨みつらみではなく実に自然な目で当時の日本人の性格や文化を書き記した良書でお勧めです。
  →「日本幽囚記を読む」2007-08-23ブログ http://bit.ly/e1ZGN4

 故郷の歴史、知っておきましょう。

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