駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『フリュー景色』初日雑感

2023年08月18日 | 日記
 宝塚歌劇月組『フリューゲル/万華鏡百景色』大劇場公演初日を日帰りで観てきました。以下、完全ネタバレの、ごく個人的な、簡単な感想です。自分の備忘録代わりに…

『フリューゲル』は…どこから着想したんですかねえ、ヨシマサ先生。プログラムには漫画家の池田邦彦氏が寄稿していて、彼の『国境のエミーリャ』(小学館ゲッサン少年サンデーコミックス)にインスパイアされ云々みたいな話も出ていますが…ほんまかいな?
 冷戦下、東西に分断されたベルリンで、東ドイツの軍人であるれいこちゃんが、西ドイツ出身で世界的ポップスターであるくらげちゃんのコンサートのお世話をすることになり…みたいな設定なのですが、なんかあんまヨシマサが興味持ちそうな題材じゃないじゃん(^^;)。しかもベタに展開するんですよ、これが。いかにもありそうなストーリーで、逆に言うと新鮮みとか萌えとかこだわりが全然感じられなかったので、なおさら「なんでコレをやろうと思ったのヨシマサ…?」と聞きたいと思った、というのが本当のところです。
 ちなっちゃんも東ドイツの軍人で、こちらはちょっと強面で。おださんはくらげちゃんナディアのマネージャー。ぱるはれいこちゃんの部下だけどやや軟派なところもあり…みたいな。
 れいこちゃんとくらげちゃんが、最初は反りが合わないもののだんだんいい感じになっていくのね、みたいなのもまあそのとおりに進むし、おださんが実はNATOの敏腕(…かどうかは描写がなかったかも。これだけでは判断できないかも)スパイでコンサートと東西関係が上手くいくよう手を回していて…というのもまあ特にひねりを感じないし、一方でちなっちゃんは東西雪解けムードに対応できないガチの思想家で、東西の分断を続けさせるためにはテロも辞さない過激派で…みたいなのも、なんかまあ、はあそうですか、という感じじゃないですか。
 れいこちゃんヨナスは母親がナチスの協力者だったことに反発してきたんだけれど、実は彼女はユダヤ人を逃がしてあげていたのであり…みたいなのの、再会、和解、みたいな展開も、はあ、まあ、そうですか、という感じで…要するに、誰でも考えつきそうな話で、なんか「どうしてもこれを描きたかったんだ!」感が感じられないかったのが、何より私は嫌でした。だからまあまあ退屈しました。
 あと、単純に作劇が下手なんだよね…登場人物の生い立ちと性格と今の役職や立場、そして生き様やものの考え方なんかを描写するのに、全然工夫がなくて、正面からただ説明していく、みたいな展開で…しかもれいこちゃんが演じていることを別にしたら、ヨナスってあまり魅力的なキャラじゃない気がしたんですけど、それじゃダメじゃない? 仮にも物語の主人公なんだからさ。
 そしてヒロインも、よくわからないキャラでした…私がポップスとかアイドルスターとかはたまたビッグアーティスト界隈のことを全然知らないせいもあるかもしれませんが、ナディアって本当に世界的なスターなんですか? こんなナリで、こんな歌で? たとえば誰イメージなの? それと、大スターでもわがままじゃない人ってフツーにいると思うんですけど、なんでナディアはこんななの? わがままというか、偉そうというか、人を人とも思っていないというか…単に人として嫌な人間になっちゃってません?
 そして、東側は無味乾燥な軍服を着た軍人か、色味のない服を着た市民ばかりで…というのの対比として、自由と民主・資本主義社会を謳歌している西側の市民はカラフルなものを着ていて…ということなのかもしれないけれど、ナディアの服を始め、カラフルとか自由とか多彩とか素敵とかいうより、単なるトンチキじゃないですか…? 宝塚歌劇ではもっと派手なお衣装なんかいくらでも目にするから、特に派手とも感じなくて、なんか中途半端なんですよ。むしろ東側の軍服の方がスタイリッシュでお洒落に見えるし(ちなつの脚の長さの映えることよ…!)、これじゃ誰も西側に憧れないと思うんですよね。でもそれじゃダメなんじゃないの? てかヨシマサの西側文化を見る目はちょっとおかしいんじゃなかろうか…?
 ベルリンの壁が崩壊して…いつマリコとタキさんが出てきて抱き合うのかしらん、とかちょっと思っちゃいましたよね。『国境のない地図』も別に名作でも全然ないけど、なんかもっとおもしろみがあった気がしますよねアヤカの二役とかさあ…
 どうしても、「翼」云々と何度も何度も語るほどには、それを求める東側の今の窮屈さとか逼迫感、みたいなものがそもそも描けていないと思うんですよね。まあだいぶ西寄りになってきたころの東側の話、とはいえ…ヨシマサも観客の大半も戦後生まれで、自由社会で生きて育ってきているんだろうし、正直ちょっとうまく想像がつかないのではないでしょうか。というか、想像したくないんだけれど今の日本こそが自民党の独裁政治に傾きつつあり、貧しく窮屈になりつつあるワケでさ…だからこんな、所詮過去の決着した他国のことを心配している場合なのかね、のんきだね、もっと他に描くべきことあるんじゃないの?とかも私は思っちゃいました。
 そういう意味ではやはり政治ドラマは宝塚歌劇には向かないのではあるまいか…イヤ何事も政治に直結していない題材なんてないんだけれど、ことに思想的なことは、よほど上手くやらないとやはり相性が悪いというか…な気がしました。
 なのでヘルムートが絶望して最後に拳銃自殺していますが、私はあれは要らないのではないかと思いましした。単にがっくり膝ついて打ちひしがれているところに幕が下りるだけだっていいじゃないですか。人気スターがやっている役にわざわざ自殺させるとか、気分悪いですよ。彼の思想は生き様に直結したものだったので、この先の世界に彼の生きる場所はなかったので…というほど、このキャラのことが描けているわけじゃないし、わざわざ死なせてここだけシリアスにドラマチックにしようとしても、無理があると思いますよ…?
 ヨナスとヘルムートにBとかLとかの愛憎とか執着とかこじれた感情のドラマもなかったようだし、ヨナスとナディアもラブ以前の、せいぜい友情が成立して終わり、なので、正直言ってなんかあまり感情的に萌えず盛り上がらず、あまりおもしろくありませんでした…ヨナスが最もこだわっていたのってむしろあまし氏のサーシャの存在だったと思うんだけど、そもそものアフガンのくだりとかもわかりづらかったし。あとあみちゃんゲッツェは、当局に何か弱みを握られていたということなの? それともだんだん思想が染まっていっちゃって…みたいなこと? よくわかりませんでした。るねっこ神父も、れんこん弁護士も…れんこんなんか冒頭のKGB役がカッコ良かったから、そっちが本役なのかと私はしばらく思いこんでいて、後半混乱しましたよ…? てかココかのん、あみちゃん以下イケメン揃いで震えましたよね…!
 けっこう下級生にまでちょいちょい台詞が振られていて、退団者にも手厚いし、そういうのはヨシマサの愛だとは思います。今後、月組が誇る芝居力で緩急がついて深まっていきまとまっていくんでしょうし、なのでこちらも再度おちついて観たら、ハートフルで笑えるところも多い良き一作…に感じられるのかもしれないけれど、しかしそれはあまりに生徒の力に頼りすぎなのでは…と私は思いました。ホンだけでちゃんとおもしろいものを書いてほしいです。
 せっかくのオリジナルなのに、なんだかなあ…大きな歴史のうねりの中の転換点に咲いた、小さなホームコメディ…みたいなものをウェルメイドに仕立てる筆力はアンタにはないよヨシマサ、というのが、現時点での私の正直な感想です。
 おもしろかった! 感動した! 大傑作! と感涙している向きには申し訳ありません…私が意地悪に見すぎている自覚はあります。おもしろいわけなかろう、と思って席につきましたもんね…でももっとちゃんとおもしろいものが観たいんだよ私は!!!(><)

 ショルダータイトルが「東京詞華集」と書いて「トウキョウアンソロジー」というルビの『万華鏡百景色』は、『夢千鳥』『カルト・ワイン』がそれぞれスマッシュ・ヒットだった栗田優香先生の大劇場デビュー作。ショーも最近はAとBとダイスケとヨシマサとイシダオカダとかしかいないのかよ!状態なので、お若い先生にはまずショーから大劇場デビューさせよう、芝居と両方やらせていこう…というのはホントいいと思います。てか景子先生ショーやろうよ絶対素敵だよ…!
 それはともかく、れいこちゃんの花火師とくらげちゃん花魁が、東京を舞台に輪廻転生を繰り返していくようなストーリー・ショーだと聞いていて、楽しみにしていました。てかもうプログラムのビジュアルが優勝です。
 とっぱしはなんと俺たちのまのんから! 赤いカーディガン、ツインテール、かーわー!! まのん少女がみとさん骨董屋から万華鏡を受け取って、ちなつはその付喪神役で、るねっこれんこんうーちゃんおだぱるあみと、みちるあましりりみかこおはねのりんちゃんという美男美女の付喪神たちが美形の凄みを見せてずらり銀橋に並び、そしてデーハーなネオ・ジャパネスク着物姿のれいこが登場して、もう勝ったも同然でした。
 ここがいわゆるプロローグなんだろうけれど、さまざまな装束の「江戸の男女」が上手下手からわーっと移動したの、めっさカッコよかったです。そして花魁のくらげちゃん登場、手を引くのはおださん、よかったなあぁ…! れいこくらげは手に手を取って逃げるも引き離され、時の輪を巡り始めるのでした…
「点灯夫の歌」のおださん、マジでジェンヌ人生何週目なんだろうね…ちなみに芝居のソロで手拍子をあおったのは、そのあと続かなかったのでナシにした方がいいのではと思いました。「美しく青きドナウ」で鹿鳴館、よく見るドレスが出てきましたが、セットも華やかでベタに素敵でよかったです。でもここのれいこちゃんとくらげちゃんの邂逅は一夜の夢で、老年のくらげちゃんをさちかが演じ、時代は大正へ…ぱるあみ、みちるりりのモボモガ。カフェーにはみかこおはねのりんちゃんの女学生、泉里雪凛というお姉様方の女給。そして「芥川龍之介」のちなつ…! この色気はヤバい!
 そして「地獄変」へ。るねっこ筆頭の男役の女装ダンサーズの名前は「業」、ひいぃ…ここのあまし氏、綺麗だったなー。れんこん、蘭くんにも見せ場あり。
 そして昭和、戦後の闇市へ。れいこくらげは「ドン」と「娼婦」へ。ふたりの在りし日のイメージを白いお衣装のかのんとみうみんが踊ります。美しい…!
 そして平成へ…EPOの「DOWN TOWN」、ちょっとツボりました(笑)。あとは知らない曲でしたが、すべて既成曲でヒットしたものなんでしょうね。聞けばアラサーにはたまらないラインナップだとか。ここから中詰め、客席降りも。そして娘役ロケットへ。羽根なしのロケットは銀橋で、凜々しくてヨイ!
 さて、令和になって、ぱるあみるおりあ以下8人組の「Z-BOYS」でネオ・シティ・ポップなるものを歌い踊るのですが、ココがホントこそばゆい…こういうのホント似合わないんだよねタカラヅカ…現代とかポピュラーといったものとの相性の悪さ、ホントぱないと思います。
 再び現れたまのん少女のもとに、おださんカラスが現れる。渋谷のスクランブル交差点、モノトーンのお衣装で忙しく行き来する男女、大階段をざかざか降りてくるスタイリッシュなカラスたち…ここ、『BADDY』のデュエダンの雰囲気ありましたよね、今にもトシちゃんのあのカゲソロが聞こえてきそうでした…!
 れいこちゃんカラスと、くらげちゃん女の一瞬の邂逅。残される少女と万華鏡…
 あとは再会のデュエダンとパレード。ぱるのひとり降り、おださんとちなっちゃんの間に歌なしですがれんこんのセンターひとり降り、万雷の拍手でした。ラインナップではまのんがちなっちゃんの真後ろになってしまい、羽根でなんにも見えませんでしたよしょぼん…しかしここのお衣装はこの場面がお初で全員新調で、白黒に赤を効かせたシックでエレガントなもので、最後までホントーにカッコよかったです! 着物のような、ベルトも帯のような…といった意匠も素敵でした。
 目先は違うもののオーソドックスなような、イヤ斬新なような、まさしくめくるめく万華鏡のような…で、やはりおニュー感があって楽しかったです。愛されるショーになるんじゃないかなあ、どうかなあ。
 私は次の観劇はもう新公なので、ショーはもう東京公演までお預けです。みなさんの感想ツイートを読んでつないでいきます…


 まずは月組さんの初日の幕が無事上がり、無事に幕が下りて、よかったです。そうそう、セリのトラブルがあったのか、黒衣のスタッフさんが生徒が奈落に落ちないようがっつりガードしているのが見える一幕もありましたね。初日あるあるですが、ここからどうぞご安全に、無事の完走を祈っています。
 そして星組さんは代役で明日から再開です。みんな大変でしょうよ、観る方も気が気でないでしょうよ…! もちろんお休みするこっちゃんが一番つらいでしょう、でも今は休んで、お大事にして。スターが元気で幸せでいてくれないとファンも悲しいのです…
 私も最後のお取次、無事に通るといいなあ…祈って、待ちます。



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『桜の園』

2023年08月17日 | 観劇記/タイトルさ行
 PARCO劇場、2023年8月13日13時。

 サクランボの花が満開の5月、女主人ラネーフスカヤ(原田美枝子)がパリから久しぶりに屋敷に帰ってくる。帰還を喜ぶラネーフスカヤの兄ガーエフ(松尾貴史)、養女ワーリャ(安藤玉恵)、近くの地主ピーシチク(市川しんぺー)、老召使フィールス(村井國夫)。しかし一族の膨らんだ負債返済のため、8月に銀行が「桜の園」を競売にかけようとしていた。百姓の息子だったロバーヒン(八嶋智人)は今や実業家で、桜の木を切って別荘地として貸し出せば競売は避けられると助言するが…
 作/アントン・チェーホフ、演出/ショーン・ホームズ、英語版/サイモン・スティーヴンス、翻訳/広田敦郎。1904年モスクワ初演、1915年日本初演。世界中で上演され続けている戯曲。全二幕。

 他にトロフィーモフ(ペーチャ)/成河、アーニャ/川島海荷など。
 吉田秋生『櫻の園』は愛蔵していますが、舞台は初めて観ました。これでチェーホフ四大戯曲をすべて観たことになる、のかな?
 でも、なんかあまり刺さりませんでした…もとともと何が起きるとかいうタイプの舞台ではないし、せめてもっと積極的に好きな女優さんでのヒロイン役だったら、印象がまた違ったのかも。いつともどこともつかない衣装、小道具、セット(美術・衣裳デザイン/グレイス・スマート)なんかはおもしろいなと思いましたし、冒頭にチェーンソーを持った作業着姿の男性(永島敬三)が「シェリー」を「♪チェリー」と歌いながら舞台を横切って始まる演出など、おもしろいなとは思ったんですけれどね…(英題は『ザ・チェリー・オーチャード』なんだそうです)
 アフタートークつきの回でしたが、後ろに予定があり、見ずに出てきてししまったので、見ていたらまた何かが深まったのかもしれません。すみません…







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『ハリー・ポッターと呪いの子』

2023年08月16日 | 観劇記/タイトルは行
 TBS赤坂ACTシアター、2023年8月12日12時15分。

 ポッター一家が闇の魔法使いであるヴォルデモート卿(篠原正志)に襲われたとき、ハリー(この日は藤木直人)の両親は殺された。しかし赤ん坊のハリーはヴォルデモートがかけた「死の呪い」を跳ね返し、生き残った。稲妻型の傷跡が額に残ったハリーは、ダーズリー一家に引き取られて育ち、11歳の誕生日に魔法使いであることを告げられ、ホグワーツ魔法魔術学校に招待される。ホグワーツでの7年間から19年後、37歳のハリーは、妻ジニー(この日は白羽ゆり)とともに息子アルバス・セブルス(この日は福山康平)がホグワーツ特急に乗り込むのを見守る…
 オリジナルストーリー/J.K.ローリング、脚本・オリジナルストーリー/ジャック・ソーン、演出・オリジナルストーリー/ジョン・ティファニー、ムーブメント・ディレクター/スティーヴン・ホゲット、美術/クリスティン・ジョーンズ。翻訳/小田島恒志、小田島則子、演出補/河合範子。1997年に刊行された世界的ベストセラー小説の全7巻の「その後」を描いた舞台。2016年ロンドン初演、以後ニューヨーク、メルボルン、サンフランシスコ、ハンブルク、トロントと上演されてきた作品の、アジア初、日本ロングラン公演。

 開幕は去年の7月でしたから、1年後の観劇となってしまいました。キャストも2年目というのか2期目というのか、新メンバーが投入され、初期メンバーが卒業していったりしているようですね。1年間マートル(佐竹桃華)を演じた美山加恋が2年目からデルフィー(この日は鈴木結里)を演じている、というのはエモいなと思いました。となみのジニーは観られたけれど、チギちゃんのハーマイオニー(この日は笹本玲奈)には間に合いませんでした…マクゴナガル/アンブリッジ(高橋ひとみ)もたぁたんが入ってるんですね、こちらも観たかった…!
 原作は全巻読みましたが、映画はイマジネーションが映像で限定される感じが嫌で、1本目しか観ていません。シリーズのものすごいファン、ということは全然なく、今回の舞台化も、子供騙しのアトラクション・ショーかファミリー向けのミュージカルなら、チケット代もお高いし私はいいや…と目を背けてきたのです。が、ミュージカルではなくストプレなのはもちろん、アトラクションとしてもとても出来がいいし、何よりおもしろい、という評判が聞こえてきて、では一応観ておくか…と腰を上げたのでした。ま、A席にしたんですけれど…それでも一万四千円! でも2階のすぐ前が通路の列のどセンターが買えて、とても観やすく、満足度が高かったです。つーか今のところ私は『ムーラン・ルージュ!』よりこっちが刺さったし、コスパに納得しています…!
 全7巻の細かい話は全然忘れてしまっていて、ざっとでも予習した方が楽しいかも、みたいな話も聞いていたのですが、読み返す暇などもちろんなく、まあなんとかなるやろ、と出かけてきました。なので最初のうちは、誰が誰と誰の子供なんだっけ…?とかなりましたが、すぐわかりました。というか十分わかりました。そしてとてもとてもおもしろかった!
 まず、全体になんか暗いのが予想外で、でもすごくいい、と思いました。物理でも暗いんです。舞台には壮麗なセットみたいなのは出てこなくて、ほとんど黒い紗幕をバックに話が展開していくし、ホグワーツの生徒たちも沈んだ色の制服やマント姿で、鮮やかで派手な色目というものが全然存在しない世界なのです。
 この黒バックは魔法のエフェクトなんかを表現するのに必要なんだろうけれど、これは1階席だと登場人物たちが埋もれちゃってけっこう観づらかったのでは…などと余計な心配をしてしまいました。2階席からだと床が少ない照明を受けてまあまあ明るいので、そこに立つ登場人物たちもくっきり見えるわけです。遠目にも識別できる工夫がちゃんとされている、というのもありますが、観ていて混乱するようなことはまったくなく、よかったです。
 また、物理だけじゃなくノリが暗い、重いのです。アルバスは思春期まっただ中というか、「あの」ハリー・ポッターの息子、という看板が重いようで、家でも学校でも居心地が良くないらしく、また性格的にも内向的でコンプレックスの塊で、父親とも上手く話ができずすれ違うか衝突を続けていて、なんかもうザッツ・中二で重いのです。
 でも、そもそも原作のノリってこんなだったよな、と思って私はけっこうニヤニヤ楽しく観ました。やはり映画版がヒットしちゃって、明るく楽しく健全で正義は勝つ!みたいな娯楽大作シリーズになっていっちゃったようなイメージがありますが、本質的には原作小説はけっこう暗いし重い。児童文学にしてはあるまじき頻度で登場人物が死にますしね。でも、そういう暗さ、重さを抱えて、それでも生きていこう、となって大人になっていく…という姿を描くのが児童文学かなと私は考えているので、この舞台化もそのエッセンスをちゃんと捉えているんだな、と思いました。
 話はけっこうスピーディーに進むし、子供騙しなところは全然なくて、ホントの中二の子供はむしろ夢中だろう、というのもよかったです。なのでこれは、ハリーの話というよりはアルバスの物語なのではないの?などと序盤は考えていたのですが、なかなかどうして、そのあとも深くおもしろいのでした。
 大ヒット作の続編を展開するにあたり、主人公の子供世代のエピソードを作るか、はたまた主人公の親世代のエピソードを展開させるか、というのはわりとベタな手法だと思います。これはそのどちらもやっているわけですね。「呪いの子」というのは一応はヴォルデモートの娘デルフィーのことかなと思いますが、親を選べず生まれてきてしまって悩んでいる、親の存在を呪縛のように感じている、という意味ではアルバスのことでもあるのでしょう。なのでこの作品のタイトルロールはハリーとアルバスのふたり、ということなのかもしれません。
 アルバスはホグワーツ特急の中でスコーピウス(この日は西野遼)と出会い、友達になります。彼もまた「あの」ドラコ・マルフォイ(この日は内田朝陽)の息子として、また出自にあらぬ噂を立てられて周りから遠巻きにされている少年なのですが、しかしドラコは大人になっていい方に人が変わったのか、はたまたその妻の養育がよかったのか、あるいは単なる性格の違いか、スコーピウスはなんかもっとおおらかなんですよね。しょうがないじゃん、まあそのうちなんとかなることもあるよ、みたいな鷹揚さを持っている少年で、アルバスのように内向きにこじらせていない。それで彼らは無二の親友になっていくのでした。
 というかアルバスにとってはそれはもうほとんど恋であるように見えました。彼は自覚の有無はともかくゲイで、それで家庭でも学校でも居場所がなく感じ、周りから浮いていたのではないでしょうか。最終的にはこの結びつきは思春期による一過性のもの、あるいはこの状態での限定的なもので、少なくともスコーピウスの方はローズ(橋本菜摘)に関心を示して終わるような流れに見えましたが、アルバスの方はそのままずっとスコーピウスを愛していたのではないかしらん…それまでもずっとフツーにBL描写しているように思えたんですよね。そのことさらでない感じがすごくいいなと思ったし、トランス差別問題があったりしつつも(だからこそ?)ローリングの作風にはそういうところがあるよな、とも思いました。
 そういう問題を抱えつつも、いろいろあって、アルバスたちは不当に落命した、と彼らが考えているセドリック・ディゴリーを救おうとし始める。しかし過去をちょっとだけ上手いこと変える、なんてことは絶対にできないのでした。いくつもの過去や現在、未来、ありえたかもしれない可能性、あってはならない状況なんかのグルグルの中で、アルバスもハリーももう一段階成長していく。その中でハリーもやっと大人に、親になるのでした。
 彼はものごころつく前に両親と死に別れています。のちに周りから彼がどんなに両親に愛され慈しまれた子供だったかを聞かされるのですが、しかし実感としてはやはり持てなかったろうし、預けられた家での扱いは散々だったわけで、それで自分が子供を持つようになっても、それこそ性格的なものなのかいい感じに育った長男なんかと違って、アルバスがハリーと似ている分、ハリーは彼に正対しづらかったのでしょう。でも、子供は親を選べないけれど、親はある程度は意志を持って子供を持つことにしたはずですから、向き合わず逃げ出すなんて許されないのです。自分と似ていてコンプレックスを刺激されて嫌だとか、自分の思うように育ってくれないとか、いろいろ不満はあるにしても、しかし向き合わなければならない。それが親の務めです。このお話を通してハリーはそれがやっとできるようになる、そういう意味ではやはりこれはハリーが主人公の物語なのでしょう。
 改変された歴史を正す過程で、ハリーは両親が自分を守って命を落とすくだりに立ち会います。それは変えられない、手助けもできない、すべきではない。でもそこでやっと、両親が本当に命を賭して自分を守ってくれたこと、自分が彼らに愛されていたことをそれこそ身をもって知ったのでした。
 そしてその場に、アルバスもいた。これを今まで知らなかったから、僕の父親は本当のところで自分に自信がなく、なので僕にも冷たかったのだ…と、彼はやっと理解できたことでしょう。それで父親が許せて、和解できた。彼もまたひとつ大人になったのです。
 冒頭でホグワーツ特急に乗り込む生徒たちが持つトランクだった小道具が、ラストシーンでは墓地の墓石になり、父と息子がセドリックの墓参りをして、物語は終わります。起きたことは取り返しがつかない、死んだ人を蘇らせることはできない、生き残ったものはそれを背負って、死者に恥じないよう生きていくしかない。そしてまた旅立ちのときが来る…
 美しい、清々しい物語だと思いました。長かったけど全然退屈しない、集中しまくった舞台でした。おもしろかったし、なんならまた観たい! キャストの違いも観てみたいですしね。
 ロン(この日は石垣佑磨)がよかったなあ、いい大人になってるんだよねえ。あとマートルもとてもそれっぽくてよかった。ダンブルドアとスネイプ(間宮啓行)、マクゴナガルとアンブリッジをそれぞれ同じ役者にやらせているのもとてもいいなと思いました。
 原作の翻訳にはけっこう問題があったようなことも話題になりましたが、さもありそうな言い回しの台詞がいくつもあったりして、ニヤリとさせられたのも楽しかったです。これはこの舞台の翻訳家が苦心したのでしょう。
 親と観に来た子供がまた親になって子供と観に来るような、そんなロングスパンのロングラン公演になっていけるのかはなかなかに謎ですが、興行側がそれをちゃんと目指しているようなのはいいですね。しかしこのハコはロビースペースが貧弱なのが難点だぜ…物販ももっとちゃんとやったらもっとお金が落ちるんだろうに、あの狭さであの混雑では並ぶ気も半減しますよ。それは本当に残念です。
 また、このハコがしばらくは他の作品には使えないとなると、都内の劇場問題はけっこうヤバいのですが、建て替えや新規建設の場合はくれぐれも「見える劇場」を作ってくれ、とだけは口を酸っぱくして言い続けたいです。ホント頼みますよ…
 ちなみにココ、別に「ハリー・ポッター・シアター」に改名したわけではないんですね…変なの。








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映画『バービー』を見て

2023年08月15日 | 日記
 昨日、映画館で見てきました。
「バーベンハイマー」の顛末にはしょんぼりしましたし、抗議のためにもボイコットして見ない、という選択もあるんだろうけれど、でもなんか気になるし、見ないと語れないし…などと考えていたところ、某男性漫画家のしょうもない、しかしいかにも本邦男性のメインストリームっぽい感想ツイートが流れてきたため、かえってちゃんと見て語りたくなってしまって、さくっとチケットを取りました。
 私はバービー人形はおろかリカちゃん人形も持っていなかった子供だったと思います。確かふたごのおうち、という名のいわゆるドールハウスのおもちゃは持っていた記憶があるのですが…お人形遊びはそんなに好きではなかった幼女だったのでしょうか、どうにも覚えていません。ものごころついてからは、読み書きを覚え漫画を読むようになり自分でもコマを割ってお話を考え漫画に仕立てて遊ぶ少女になって、ごっこ遊びや空想、妄想はその中でしてきたので、あまりお人形とかぬいぐるみへの思い入れの記憶、みたいなものが残っていないのかもしれません。
 ということもあって、予備知識ほぼゼロで見ました。なんかバービー人形の話、ということしか知らなかった。バービーの何をどう描く映画なのか、主演女優も映画監督が誰かも知らないで見ました。あとで知りましたが、そういえば『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』は見たな、くらい…
 で、それがよかったのか、私はとても新鮮に、かつおもしろく見ましたし、ケン暴走ターンは怖くてグロリア熱弁ターンは熱くてそれぞれ泣いちゃったりして、そしてオチに衝撃を受けたのでした。
 そもそもフェミニズムとしては初歩の初歩であるとか、所詮白人女性視点にすぎないとか、いろいろ取りこぼしているものがあるとかなんとか、そうした論評は出揃いつつあり、それはプロの評論家にお任せしたいと思いますが、このオチについて、私が「そうそう!」と思うようなレビューや感想ツイートを見つけられないでいるので、今、自分で書きます。
 以下、ネタバレです。映画をこれからご覧になるつもりの方は、ご留意ください。

***

 いろいろあって、誇りを取り戻し、しかしバービーは人形のままいるのではなく人間になりたい、人間として生きたいと考えるようになります。変化したい、と切望したのですね。その先は老化そして死しかなくても、変わらないままの永遠のお人形さんより、変わっていく生き方を選んだわけです。で、ピンクのお洋服とハイヒールを脱いで、アースカラーの服とビルケンかな?なペタンコ靴で、とあるビルに入っていく。
 私は、マテル社の入社面接を受ける、みたいなことなのかな?と思っていました。ら、用向きを尋ねられて、バービーが「婦人科の受診を」と答えて、映画は終わったのでした。
 私は純粋に驚き、しばらくは意味がわからず、エンドロールを眺めているうちにじわじわと感動していったのでした。で、見終えたら、好き!ってつぶやかなきゃ!!などと考え始め、そして楽しく映画館を出て帰宅したのでした。

 萩尾望都の傑作のひとつに『スター・レッド』という素晴らしいフェミニズムSFがあるのですが(残念ながら『ポーの一族』や『トーマの心臓』ほど語られることがないように思えて、本当に悔しいです…ちなみに私は作者同様に女性でもSFファンなので、『バービー』冒頭のパロディはもちろん理解できてニヤリとしましたし、たいそうおもしろく感じました)、その中でトゥジーという少女が「二週間おきに」「血液検査に」「医局に」通っている描写があります。このお話では火星の胎児死亡率が高いため云々、という設定はあるのですが、これをきっかけに知ったのか、はたまた私の単なる思い込みかはわからないのですが、欧米の女性は(まあこれも経済的に恵まれた白人に限ることなのかもしれませんが)思春期というか初潮前後からかかりつけの婦人科病院を持つようになるのが一般的である、という認識が私にはあります。私はこれを素晴らしいことだとと考えていて、日本でもかくあるべきだし全世界でそうなるといい、と考えています。私自身は生理が軽いまま閉経を迎えようとしていて、病院どころか薬もほとんど要らずにすごしてきたのですが、そもそも病院というものは具合が悪くなってから治療のために行くものではなく、普段から定期的にきちんとかかって心身を健全に健康に保つことに意義があるのであり、そういう活用の仕方をするべきだ、という考え方ですね。
 お人形のバービーには、字幕によれば「ツルペタ」、つまりヴァギナがありませんでした。子宮も卵巣も、それでいえば他の臓器も何もなかったわけです。でも、人間になり、肉体を持つことになった。心臓も肺も胃もあるし、子宮も卵巣もあり、膣もある存在になった。身体女性になった、というやつでしょうか。で、だから、健康診断に行く。子供も大人も学校や会社で年1回の検診を受けるように、バービーもまずは病院に行く、婦人科も受診する。これはそういうことなんだ、と思ったのです。
 病気や怪我の治療のために医者にかかるのではなく、普段から医師に心身のことを相談し、心身をより良い状態に保つためのケア、メンテナンスをするのです。生理が重いならピルを処方してもらうのか、妊娠を望んでいないならリングやペッサリーその他の機器をどう使用していくか、妊娠を希望しているなら何をどう進めていけばいいのか、自分で自分の身体と、現状、希望、未来、生き方と向き合い、専門家と相談して、熟考して決めていき、その結果の責任を引き受ける。成人として当然の生き方と言えるでしょう。
 日本ではこういうことが一般的になっていないから、経口避妊薬が高価すぎて買いづらい問題などを始め、リプロダクティブ・ヘルスの考え方がなかなか浸透せず、女性の生きづらさはなかなか解消されていかないのです。その人の身体はその人自身のものだ、ということすら理解されておらず、とんでもない性加害、性暴力がまかり通り、女性の人権が蹂躙され続けています。つい昨日のDJ SODAの件もそれです。ときどき本当に絶望的な気分になります…
 でも、バービーは人間になったので、病院に行く。女性なので婦人科に行く。現時点での妊娠ないし妊娠希望の有無とかは関係ない。バービーはこの時点では母親になろうともなるまいともしていません。ただ、心身のケアのために病院に行くのです。だって人間だから。
 なので男性も、人間なんだったらちゃんと病院に行ってよね、心身のケアは自分でしてよね、ということを言っているオチでもある、と私は思いました。具合が悪くなっても痛みを我慢して、病院になんか行かないオレつえぇ、みたいなバカ、いるじゃないですか。不潔にしてても平気なオレすげぇ、とか、暴飲暴食しちゃって健康に気を遣わないオレかっこいい、みたいなバカとか。徹夜できるオレ、不摂生するオレすげぇ、とか。そのくせケアを周りの女性に強いたりするバカです。こういうの、要するに人間以下だってことです。子供のうちは親がやってくれるかもしれない、でも成人したら自分のことは自分でするんです。あたりまえのことです。
 元人形だろうとバービーはちゃんとしているから、まずここから始めるのです。偉い、と褒めるほどのことではないけれど、なので特にことさらでもなくさらりと描いて、ぱっと切り上げてこの映画は終わります。そこがもう、最高にカッコいいと私は思いました。シビれました。
 私も、妻にも母親にもなっていませんし、CEOにも大統領にも小説家にも物理学者にも宇宙飛行士にもスーパーモデルにもなっていません。なれたのは正社員くらい? 今さらそんなふうに区分けしている人はもういないと思いますが、いわゆる負け犬、喪女にあたる存在なのかもしれません。でも、納税し、勤労し、投票し、元気に楽しく生きています。
 人は何にでもなれるし、でも何者かにならなくてはいけないなんてこともなく、ただ幸せになるために生きていいし、さらには世界をより幸せな場所にすることに何か寄与できるとなおいいね、くらいでしょう。生まれてきた意味なんてないし、生きていくことに理由も要らない。生まれたので、生きている、だけでいいのです。ありのままで素晴らしいし、そこから変わっていっても変わらなくてもかまわないのです。どんな生き方も尊重されるべきです。それは他人にあれこれ口出しされることでは全然ない。
 私はこのあたりのことにあまり不安を感じたことがなく、自明だと思って生きてきた、恵まれた、あるいはずうずうしい人間なので、「この映画で救われた!」みたいなことは全然感じていないのですが、でもこういうメッセージは世界にまだまだ足りないのだろうから、手を変え品を変え何度もしつこくやっていく必要があるのだろう、とはわかっているので、この作品を支持します。完璧ではないけれど、それでも有意義だと思う。何度でも繰り返して、人々の意識をちょっとずつでも変えて、世界をいい方に変えていくしかない。人類が変わるのが先か滅ぶのが先か、厳しい戦いなのです。微々たる戦力にしかならなくても、戦い続けたい。世界を、人間を愛しているから。何より自分が楽しく幸せに生きていきたいから。
 そんなことを考えさせられた映画だったのでした。






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『サントリーホールでオルガンZANMAI! オルガン×ベルサイユのばら』

2023年08月14日 | 観劇記/クラシック・コンサート
 サントリーホール、2023年8月11日15時半。

 主題歌「薔薇は美しく散る」を始め、馬飼野康二作曲のテレビアニメ『ベルサイユのばら』劇伴音楽をオルガン用に編曲し、演奏とともに朗読を披露するコンサート。オルガン/原田真侑、朗読/七海ひろき、演出/田中麻衣子、編曲/坂本日菜。

 謎の政府の謎の宴会への酒の謎の無償提供の件といい、保険証廃止に関して「納期」と言い放つ厚顔ぶりの件といい、私はいちいちメーカーを見て買い物をしていないので不買運動はできていませんが、しかしわかっていて避けられるなら避けたいところではあるサントリー案件で、金を落とすことには忸怩たる想いがあるのですが…しかし、サントリーホールはクラシック音楽の殿堂であり、その舞台に現役、OG問わずジェンヌが立つことなどほとんど空前絶後のことかと思われ、かつ一時間聴いて三千円というのは破格のお値段ではと思われたので、いそいそとチケットを取ってしまいました。
 正直、お盆時期だし、わりと直前に発表されたイベントでもあるし、前列センターブロックしか埋まっていないガラガラっぷりなのでは…とか思っていたのですが、意外や二階もサイド席までよく埋まっていて、壮観でした。えっ、かいちゃんってすごくない!? えっ、だってこのみんながみんなオルガンファンなわきゃないでしょ!?(暴言)いやサントリーホールのパイプオルガンは世界でも最大級の規模のものだとは知ってはいますが、それでも言うてもやっぱりメジャーな楽器ではないから、こうして毎年一日がかりでいろいろなイベントを開催して、ほぼ無償で見せて聴かせてファンを増やそうとあれこれやっているわけですよねホール側は? 『ベルばら』とのコラボ、そこにジェンヌを呼ぶ、という発想や企画がどこから出たものかわかりませんが、読みは当たって、有料にしても客が呼べると踏み、そして実際に客が入って、企画としては大成功なわけです。今どきのこととはいえ配信もアーカイブまである…かいちゃんは言い方悪いけど客寄せパンダとしての役目をきっちり果たしたのであり、またひとつお仕事の幅を広げ先につなげたじゃん、というまさに快進撃だと思いました。
 いやホントすごいよかいちゃん、しごできすぎるよ。でも楽しいんだろうな充実してるんだろうな。なんでもやってるわけじゃなくてちゃんと吟味していて、でも臆することなくいろいろチャレンジしているようなのがいいですよね。それで本業(?)の声優の仕事もバンバン決まっていってるし、次は舞台のプロデュースもやっちゃうし、ホント八面六臂の活躍です。単に女優としてビッグになっていくOGはいても、こういうケースは他になかなかないわけで、ホントすごいと思っています。この先も期待しかありません。
 まあ私はホント言うとそんなにはファンではなく、あくまでフツーのファンで(^^;)、むしろ原作漫画の熱烈なファンであり、クラシック音楽のミーハーファンでもあるので、のこのこ出向いたわけですが、しかし感動しました。おもしろかったです。
 音楽同様、朗読台本もアニメ準拠で、アニメはアニメで名作なのですが私はやはり原作漫画こそ至高、と考えている派なので、そこはちょっとアレレ、とは感じました。
 でも、なんせかいちゃんが熱演なワケですよ! 地の文は端正に読み、オスカルとアンドレ、アントワネット、フェルゼンに扮して言う台詞は熱くエモーショナルで、声優としてのテクニックの爆発力はもちろん、当人の解釈の深さや熱さ、こだわりがビンビンに感じられ、アクションもついて、こちらもまあ胸を鷲づかみにされ揺さぶられまくりました。
 また、照明の演出もよかったです。単に演奏と朗読が交互、とかではなく、重なる部分もあり、演奏の間はかいちゃんへのスポットライトは落ちていて…ってだけでもないのです。暗い中語ったり、明るく照らされていてもただ音楽に浸っているだけだったり…バックライトが点灯してシルエットになったときは、あまりの美しさに「絵か? 絵なのか!?」と動揺しましたよね…そうそう、またお洋服が白の三つ揃えのスーツで、ジャケットの丈は長くて襟元はフリルのリボンで、ホントどこの王子さまですか!?って感じなんですよ。もーファンの方の安否を案じちゃいましたよね…カッコよすぎてつらい、なんてしんどい嬉しさでしょうね……
 もちろん音楽も荘厳で素晴らしかったです。てか「アバンタイトル」って名前になっていましたが、アニメで各話のサブタイトルが出るときに流れるキャッチBGから始まったので、私はもうニヤついてたまりませんでした。コレ、『ガンダム』とかでもやりません? クラシックファンって男性の方が多いんだろうし、私もサントラまで聞き込んでいるので『ガンダム』でやられたらもっともっとニマニマでしょう…!
 劇伴だけでなくボッケリーニやバッハの「メヌエット」、バルバートルの「ラ・マルセイエーズ」なんかも組み込まれていて、来てはみたけど実は『ベルばら』をタイトルくらいしか知らない、みたいな方も楽しめたのではないかと思いました。

 終演後に、昼にかいちゃんをナビゲーターとしてバッハ前後のオルガン曲で構成したコンサートを演奏したオルガニストの方と、今回の方とかいちゃんとで3人のトークショーもあり、これも楽しかったです。
 まずこのおふたりが師弟で、ともに兵庫県出身で、どうもかいちゃんないし宝塚歌劇について知らないではない感じだったのがよかったです。なんとなくこっち側感が醸し出されていて(笑)、でもそこにつっこみすぎることなくあくまでオルガンについて話すのもよかった。かいちゃんの素人ならではの質問もよかったし、その回答も的確で、聞いていておもしろくてためになりました。アーティストって口下手だったり話がおもしろくなかったりすることがままあるものだと私は思っているのですが(偏見ですかそうですか、すみません)、今回はそういうことがなくて、とても有意義でした。
 さっきまで演奏していたオルガニストさんが、お着替えしてきた気遣いも素晴らしいなと思いましたが、しばらく汗が引かない様子だったのもとても微笑ましかったです。というかものすごい重労働っぽいんですよね、オルガン演奏って。一時間たっぷり弾く、ってけっこう大変なことだったんじゃないでしょうか…また、黒衣の譜めくりらしき方がいるなとは気づいていましたが、オルガンのストップを操作するアシスタントさんだったとは勉強になりました。裏側で支えるスタッフさんももちろん、たくさんの方の手がかかってできている演奏、コンサートなんだな、と感動しましたね。やはりチケット代がお安すぎるのでは…
 楽しい夏休みのスタートとなりました。






コメント (2)
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