昨日、映画館で見てきました。
「バーベンハイマー」の顛末にはしょんぼりしましたし、抗議のためにもボイコットして見ない、という選択もあるんだろうけれど、でもなんか気になるし、見ないと語れないし…などと考えていたところ、某男性漫画家のしょうもない、しかしいかにも本邦男性のメインストリームっぽい感想ツイートが流れてきたため、かえってちゃんと見て語りたくなってしまって、さくっとチケットを取りました。
私はバービー人形はおろかリカちゃん人形も持っていなかった子供だったと思います。確かふたごのおうち、という名のいわゆるドールハウスのおもちゃは持っていた記憶があるのですが…お人形遊びはそんなに好きではなかった幼女だったのでしょうか、どうにも覚えていません。ものごころついてからは、読み書きを覚え漫画を読むようになり自分でもコマを割ってお話を考え漫画に仕立てて遊ぶ少女になって、ごっこ遊びや空想、妄想はその中でしてきたので、あまりお人形とかぬいぐるみへの思い入れの記憶、みたいなものが残っていないのかもしれません。
ということもあって、予備知識ほぼゼロで見ました。なんかバービー人形の話、ということしか知らなかった。バービーの何をどう描く映画なのか、主演女優も映画監督が誰かも知らないで見ました。あとで知りましたが、そういえば『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』は見たな、くらい…
で、それがよかったのか、私はとても新鮮に、かつおもしろく見ましたし、ケン暴走ターンは怖くてグロリア熱弁ターンは熱くてそれぞれ泣いちゃったりして、そしてオチに衝撃を受けたのでした。
そもそもフェミニズムとしては初歩の初歩であるとか、所詮白人女性視点にすぎないとか、いろいろ取りこぼしているものがあるとかなんとか、そうした論評は出揃いつつあり、それはプロの評論家にお任せしたいと思いますが、このオチについて、私が「そうそう!」と思うようなレビューや感想ツイートを見つけられないでいるので、今、自分で書きます。
以下、ネタバレです。映画をこれからご覧になるつもりの方は、ご留意ください。
***
いろいろあって、誇りを取り戻し、しかしバービーは人形のままいるのではなく人間になりたい、人間として生きたいと考えるようになります。変化したい、と切望したのですね。その先は老化そして死しかなくても、変わらないままの永遠のお人形さんより、変わっていく生き方を選んだわけです。で、ピンクのお洋服とハイヒールを脱いで、アースカラーの服とビルケンかな?なペタンコ靴で、とあるビルに入っていく。
私は、マテル社の入社面接を受ける、みたいなことなのかな?と思っていました。ら、用向きを尋ねられて、バービーが「婦人科の受診を」と答えて、映画は終わったのでした。
私は純粋に驚き、しばらくは意味がわからず、エンドロールを眺めているうちにじわじわと感動していったのでした。で、見終えたら、好き!ってつぶやかなきゃ!!などと考え始め、そして楽しく映画館を出て帰宅したのでした。
萩尾望都の傑作のひとつに『スター・レッド』という素晴らしいフェミニズムSFがあるのですが(残念ながら『ポーの一族』や『トーマの心臓』ほど語られることがないように思えて、本当に悔しいです…ちなみに私は作者同様に女性でもSFファンなので、『バービー』冒頭のパロディはもちろん理解できてニヤリとしましたし、たいそうおもしろく感じました)、その中でトゥジーという少女が「二週間おきに」「血液検査に」「医局に」通っている描写があります。このお話では火星の胎児死亡率が高いため云々、という設定はあるのですが、これをきっかけに知ったのか、はたまた私の単なる思い込みかはわからないのですが、欧米の女性は(まあこれも経済的に恵まれた白人に限ることなのかもしれませんが)思春期というか初潮前後からかかりつけの婦人科病院を持つようになるのが一般的である、という認識が私にはあります。私はこれを素晴らしいことだとと考えていて、日本でもかくあるべきだし全世界でそうなるといい、と考えています。私自身は生理が軽いまま閉経を迎えようとしていて、病院どころか薬もほとんど要らずにすごしてきたのですが、そもそも病院というものは具合が悪くなってから治療のために行くものではなく、普段から定期的にきちんとかかって心身を健全に健康に保つことに意義があるのであり、そういう活用の仕方をするべきだ、という考え方ですね。
お人形のバービーには、字幕によれば「ツルペタ」、つまりヴァギナがありませんでした。子宮も卵巣も、それでいえば他の臓器も何もなかったわけです。でも、人間になり、肉体を持つことになった。心臓も肺も胃もあるし、子宮も卵巣もあり、膣もある存在になった。身体女性になった、というやつでしょうか。で、だから、健康診断に行く。子供も大人も学校や会社で年1回の検診を受けるように、バービーもまずは病院に行く、婦人科も受診する。これはそういうことなんだ、と思ったのです。
病気や怪我の治療のために医者にかかるのではなく、普段から医師に心身のことを相談し、心身をより良い状態に保つためのケア、メンテナンスをするのです。生理が重いならピルを処方してもらうのか、妊娠を望んでいないならリングやペッサリーその他の機器をどう使用していくか、妊娠を希望しているなら何をどう進めていけばいいのか、自分で自分の身体と、現状、希望、未来、生き方と向き合い、専門家と相談して、熟考して決めていき、その結果の責任を引き受ける。成人として当然の生き方と言えるでしょう。
日本ではこういうことが一般的になっていないから、経口避妊薬が高価すぎて買いづらい問題などを始め、リプロダクティブ・ヘルスの考え方がなかなか浸透せず、女性の生きづらさはなかなか解消されていかないのです。その人の身体はその人自身のものだ、ということすら理解されておらず、とんでもない性加害、性暴力がまかり通り、女性の人権が蹂躙され続けています。つい昨日のDJ SODAの件もそれです。ときどき本当に絶望的な気分になります…
でも、バービーは人間になったので、病院に行く。女性なので婦人科に行く。現時点での妊娠ないし妊娠希望の有無とかは関係ない。バービーはこの時点では母親になろうともなるまいともしていません。ただ、心身のケアのために病院に行くのです。だって人間だから。
なので男性も、人間なんだったらちゃんと病院に行ってよね、心身のケアは自分でしてよね、ということを言っているオチでもある、と私は思いました。具合が悪くなっても痛みを我慢して、病院になんか行かないオレつえぇ、みたいなバカ、いるじゃないですか。不潔にしてても平気なオレすげぇ、とか、暴飲暴食しちゃって健康に気を遣わないオレかっこいい、みたいなバカとか。徹夜できるオレ、不摂生するオレすげぇ、とか。そのくせケアを周りの女性に強いたりするバカです。こういうの、要するに人間以下だってことです。子供のうちは親がやってくれるかもしれない、でも成人したら自分のことは自分でするんです。あたりまえのことです。
元人形だろうとバービーはちゃんとしているから、まずここから始めるのです。偉い、と褒めるほどのことではないけれど、なので特にことさらでもなくさらりと描いて、ぱっと切り上げてこの映画は終わります。そこがもう、最高にカッコいいと私は思いました。シビれました。
私も、妻にも母親にもなっていませんし、CEOにも大統領にも小説家にも物理学者にも宇宙飛行士にもスーパーモデルにもなっていません。なれたのは正社員くらい? 今さらそんなふうに区分けしている人はもういないと思いますが、いわゆる負け犬、喪女にあたる存在なのかもしれません。でも、納税し、勤労し、投票し、元気に楽しく生きています。
人は何にでもなれるし、でも何者かにならなくてはいけないなんてこともなく、ただ幸せになるために生きていいし、さらには世界をより幸せな場所にすることに何か寄与できるとなおいいね、くらいでしょう。生まれてきた意味なんてないし、生きていくことに理由も要らない。生まれたので、生きている、だけでいいのです。ありのままで素晴らしいし、そこから変わっていっても変わらなくてもかまわないのです。どんな生き方も尊重されるべきです。それは他人にあれこれ口出しされることでは全然ない。
私はこのあたりのことにあまり不安を感じたことがなく、自明だと思って生きてきた、恵まれた、あるいはずうずうしい人間なので、「この映画で救われた!」みたいなことは全然感じていないのですが、でもこういうメッセージは世界にまだまだ足りないのだろうから、手を変え品を変え何度もしつこくやっていく必要があるのだろう、とはわかっているので、この作品を支持します。完璧ではないけれど、それでも有意義だと思う。何度でも繰り返して、人々の意識をちょっとずつでも変えて、世界をいい方に変えていくしかない。人類が変わるのが先か滅ぶのが先か、厳しい戦いなのです。微々たる戦力にしかならなくても、戦い続けたい。世界を、人間を愛しているから。何より自分が楽しく幸せに生きていきたいから。
そんなことを考えさせられた映画だったのでした。
「バーベンハイマー」の顛末にはしょんぼりしましたし、抗議のためにもボイコットして見ない、という選択もあるんだろうけれど、でもなんか気になるし、見ないと語れないし…などと考えていたところ、某男性漫画家のしょうもない、しかしいかにも本邦男性のメインストリームっぽい感想ツイートが流れてきたため、かえってちゃんと見て語りたくなってしまって、さくっとチケットを取りました。
私はバービー人形はおろかリカちゃん人形も持っていなかった子供だったと思います。確かふたごのおうち、という名のいわゆるドールハウスのおもちゃは持っていた記憶があるのですが…お人形遊びはそんなに好きではなかった幼女だったのでしょうか、どうにも覚えていません。ものごころついてからは、読み書きを覚え漫画を読むようになり自分でもコマを割ってお話を考え漫画に仕立てて遊ぶ少女になって、ごっこ遊びや空想、妄想はその中でしてきたので、あまりお人形とかぬいぐるみへの思い入れの記憶、みたいなものが残っていないのかもしれません。
ということもあって、予備知識ほぼゼロで見ました。なんかバービー人形の話、ということしか知らなかった。バービーの何をどう描く映画なのか、主演女優も映画監督が誰かも知らないで見ました。あとで知りましたが、そういえば『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』は見たな、くらい…
で、それがよかったのか、私はとても新鮮に、かつおもしろく見ましたし、ケン暴走ターンは怖くてグロリア熱弁ターンは熱くてそれぞれ泣いちゃったりして、そしてオチに衝撃を受けたのでした。
そもそもフェミニズムとしては初歩の初歩であるとか、所詮白人女性視点にすぎないとか、いろいろ取りこぼしているものがあるとかなんとか、そうした論評は出揃いつつあり、それはプロの評論家にお任せしたいと思いますが、このオチについて、私が「そうそう!」と思うようなレビューや感想ツイートを見つけられないでいるので、今、自分で書きます。
以下、ネタバレです。映画をこれからご覧になるつもりの方は、ご留意ください。
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いろいろあって、誇りを取り戻し、しかしバービーは人形のままいるのではなく人間になりたい、人間として生きたいと考えるようになります。変化したい、と切望したのですね。その先は老化そして死しかなくても、変わらないままの永遠のお人形さんより、変わっていく生き方を選んだわけです。で、ピンクのお洋服とハイヒールを脱いで、アースカラーの服とビルケンかな?なペタンコ靴で、とあるビルに入っていく。
私は、マテル社の入社面接を受ける、みたいなことなのかな?と思っていました。ら、用向きを尋ねられて、バービーが「婦人科の受診を」と答えて、映画は終わったのでした。
私は純粋に驚き、しばらくは意味がわからず、エンドロールを眺めているうちにじわじわと感動していったのでした。で、見終えたら、好き!ってつぶやかなきゃ!!などと考え始め、そして楽しく映画館を出て帰宅したのでした。
萩尾望都の傑作のひとつに『スター・レッド』という素晴らしいフェミニズムSFがあるのですが(残念ながら『ポーの一族』や『トーマの心臓』ほど語られることがないように思えて、本当に悔しいです…ちなみに私は作者同様に女性でもSFファンなので、『バービー』冒頭のパロディはもちろん理解できてニヤリとしましたし、たいそうおもしろく感じました)、その中でトゥジーという少女が「二週間おきに」「血液検査に」「医局に」通っている描写があります。このお話では火星の胎児死亡率が高いため云々、という設定はあるのですが、これをきっかけに知ったのか、はたまた私の単なる思い込みかはわからないのですが、欧米の女性は(まあこれも経済的に恵まれた白人に限ることなのかもしれませんが)思春期というか初潮前後からかかりつけの婦人科病院を持つようになるのが一般的である、という認識が私にはあります。私はこれを素晴らしいことだとと考えていて、日本でもかくあるべきだし全世界でそうなるといい、と考えています。私自身は生理が軽いまま閉経を迎えようとしていて、病院どころか薬もほとんど要らずにすごしてきたのですが、そもそも病院というものは具合が悪くなってから治療のために行くものではなく、普段から定期的にきちんとかかって心身を健全に健康に保つことに意義があるのであり、そういう活用の仕方をするべきだ、という考え方ですね。
お人形のバービーには、字幕によれば「ツルペタ」、つまりヴァギナがありませんでした。子宮も卵巣も、それでいえば他の臓器も何もなかったわけです。でも、人間になり、肉体を持つことになった。心臓も肺も胃もあるし、子宮も卵巣もあり、膣もある存在になった。身体女性になった、というやつでしょうか。で、だから、健康診断に行く。子供も大人も学校や会社で年1回の検診を受けるように、バービーもまずは病院に行く、婦人科も受診する。これはそういうことなんだ、と思ったのです。
病気や怪我の治療のために医者にかかるのではなく、普段から医師に心身のことを相談し、心身をより良い状態に保つためのケア、メンテナンスをするのです。生理が重いならピルを処方してもらうのか、妊娠を望んでいないならリングやペッサリーその他の機器をどう使用していくか、妊娠を希望しているなら何をどう進めていけばいいのか、自分で自分の身体と、現状、希望、未来、生き方と向き合い、専門家と相談して、熟考して決めていき、その結果の責任を引き受ける。成人として当然の生き方と言えるでしょう。
日本ではこういうことが一般的になっていないから、経口避妊薬が高価すぎて買いづらい問題などを始め、リプロダクティブ・ヘルスの考え方がなかなか浸透せず、女性の生きづらさはなかなか解消されていかないのです。その人の身体はその人自身のものだ、ということすら理解されておらず、とんでもない性加害、性暴力がまかり通り、女性の人権が蹂躙され続けています。つい昨日のDJ SODAの件もそれです。ときどき本当に絶望的な気分になります…
でも、バービーは人間になったので、病院に行く。女性なので婦人科に行く。現時点での妊娠ないし妊娠希望の有無とかは関係ない。バービーはこの時点では母親になろうともなるまいともしていません。ただ、心身のケアのために病院に行くのです。だって人間だから。
なので男性も、人間なんだったらちゃんと病院に行ってよね、心身のケアは自分でしてよね、ということを言っているオチでもある、と私は思いました。具合が悪くなっても痛みを我慢して、病院になんか行かないオレつえぇ、みたいなバカ、いるじゃないですか。不潔にしてても平気なオレすげぇ、とか、暴飲暴食しちゃって健康に気を遣わないオレかっこいい、みたいなバカとか。徹夜できるオレ、不摂生するオレすげぇ、とか。そのくせケアを周りの女性に強いたりするバカです。こういうの、要するに人間以下だってことです。子供のうちは親がやってくれるかもしれない、でも成人したら自分のことは自分でするんです。あたりまえのことです。
元人形だろうとバービーはちゃんとしているから、まずここから始めるのです。偉い、と褒めるほどのことではないけれど、なので特にことさらでもなくさらりと描いて、ぱっと切り上げてこの映画は終わります。そこがもう、最高にカッコいいと私は思いました。シビれました。
私も、妻にも母親にもなっていませんし、CEOにも大統領にも小説家にも物理学者にも宇宙飛行士にもスーパーモデルにもなっていません。なれたのは正社員くらい? 今さらそんなふうに区分けしている人はもういないと思いますが、いわゆる負け犬、喪女にあたる存在なのかもしれません。でも、納税し、勤労し、投票し、元気に楽しく生きています。
人は何にでもなれるし、でも何者かにならなくてはいけないなんてこともなく、ただ幸せになるために生きていいし、さらには世界をより幸せな場所にすることに何か寄与できるとなおいいね、くらいでしょう。生まれてきた意味なんてないし、生きていくことに理由も要らない。生まれたので、生きている、だけでいいのです。ありのままで素晴らしいし、そこから変わっていっても変わらなくてもかまわないのです。どんな生き方も尊重されるべきです。それは他人にあれこれ口出しされることでは全然ない。
私はこのあたりのことにあまり不安を感じたことがなく、自明だと思って生きてきた、恵まれた、あるいはずうずうしい人間なので、「この映画で救われた!」みたいなことは全然感じていないのですが、でもこういうメッセージは世界にまだまだ足りないのだろうから、手を変え品を変え何度もしつこくやっていく必要があるのだろう、とはわかっているので、この作品を支持します。完璧ではないけれど、それでも有意義だと思う。何度でも繰り返して、人々の意識をちょっとずつでも変えて、世界をいい方に変えていくしかない。人類が変わるのが先か滅ぶのが先か、厳しい戦いなのです。微々たる戦力にしかならなくても、戦い続けたい。世界を、人間を愛しているから。何より自分が楽しく幸せに生きていきたいから。
そんなことを考えさせられた映画だったのでした。