梅田芸術劇場、2016年6月4日17時。
1788年7月、フランス・ボーヌ地方。旱魃が続いたため税金不払いとなった農民が投獄されようとしていた。その中にいた父を助けようとしたロナン(この日は加藤和樹)だったが、ペイロール伯爵(岡幸二郎)の指示で放たれた銃弾に父は倒れ、息絶える。いつか父の仇を討ち没収された土地を取り返すことを胸に誓い、ロナンはパリに出るが…
脚本・演出/小池修一郎、音楽監督/太田健、振付/桜木涼介、KAORIalive、Twiggz、美術・映像監修/松井るみ。
2012年フランス初演のスペクタキュルを15年に宝塚歌劇月組で日本初演、その帝劇版。全2幕。
月組版の感想はこちら。
うっかりしていたら帝劇での上演を見送ってしまい、大千秋楽間際にお友達のおかげで滑り込み観劇しました。加藤・夢咲・凰稀版を観ましたが、他のダブルキャストも観てみたかったです。
とても楽しく観ましたが、残念ながら、内容的には、私が個人的に期待しすぎていたせいか、宝塚版との差異があまり感じられなかったことがけっこう不満で、だったら宝塚で再演すればよくない?と思ってしまいました。すみません。でも外部で、男女の俳優を使ってやる意義が、宝塚版ではできなかったもっと別の何かがあるのかと思っていたのです。それがほとんどなく見えました。まあ私が勝手にそう想定していただけなのですが。
以下、毎度、私が勝手に考える「こうあるべきだったんじゃないの?」という話なので、「おもしろかった! 大満足! いったい何が不満なの???」というご感想だった方には読むのをあまりオススメしません。長いし(笑)。ちなみに繰り返しますが、私も公演自体はとても楽しく観たのです。でも、だったら叶わずともまさちゃぴカチャみや珠城さんでまた観たかったよ、と思った、というだけの話です。
もちろん、世の中には宝塚歌劇であるからこそ観ない、という人はいると思うので、外部で一般的なミュージカルとして上演された方がこの素晴らしい作品がたくさんの人に届いて、それはいいことなのでしょう。
でもなんか、宝塚版は原作ミュージカルからかなり改変されているものだという思い込みが私の中にあって、その改変の際に取りこぼした何か本質的なものが今度の舞台では観られるはず…と思ってしまっていたのですよ。それがなかったから、だったら宝塚版でいいじゃん、宝塚版をみんな観てよ、と思ってしまったのは、私が宝塚歌劇ファンだからなのでしょうかね。
『エリザベート』や『ロミオとジュリエット』と違って、今回は宝塚での初演と外部上演との間にほとんど時差がなかったし、最初からほぼまんまで行く予定だったのかもしれません。原作ミュージカルはミュージカルというよりコンサート・ショーの色合いが強く、日本での上演に向けてストーリー性を加えキャラクターを立てお芝居仕立てにする作業をきちんとしたらほぼ今の形になってしまい、宝塚歌劇としてのコードに抵触するような部分は特になかったので(番手スターの扱いの問題として歌の担当替えがあった程度で)、そこからの大きな改変やその揺り戻しとしての外部版でのさらなる変更はなかった、ということなのかもしれません。
でもだったら、そんなに出来のいい作品なら(そして私はこのミュージカルが大好きですが)、宝塚歌劇でしか上演しない契約にしちゃえばよかったのにな。これは商売としての採算度外視で、宝塚ファンとしての発言ですが。そういう作品があった方が、宝塚歌劇の財産になるでしょ? 宝塚は観ない、という主義のミュージカル・ファンが、この作品を国内で観たいと思ったら宝塚歌劇を観るしかない、となったらけっこう痛快だと思うんですけれど…卑屈で意地悪な発想ですかね?
まあ、まんまならまんまでもいいんですけれど、せめてもっとブラッシュアップしてほしかったです。そこまで完璧な完成品じゃないだろう、とは言いたい。今はなんかちょっと目先を変えてるだけじゃん、おんなじじゃん。こういうあと出しじゃんけんみたいなものじゃなくて、もっと格段により良くなっているものが観たかった。せこいマイナーチェンジにしか見えなかったし、それってコピーがどんどんボヤけていくような劣化感を早くも感じるんですよね…せっかくの豪華キャストが、私には残念に思えました。
結局、私は、やはりオランプが肝なのだと思うのです。
この作品は天に王侯貴族の代表としてマリー・アントワネットがいて、地に平民代表として農夫の息子ロナンがいて、間にオランプがいる構造になっていますよね。オランプはアントワネットに仕えているんだけれど、ロナンと恋に落ちる。そしてこの物語の主人公はロナンかもしれないけれど、観客の多くは女性であり、だからロナン恋の相手になるオランプに感情移入してお話を追う形になる。女性キャラクターの方が共感しやすいし、ふたりのラブストーリーが物語のひとつの軸になっているからです。
でも彼女の立ち位置がよくわからないままですよね。たとえば彼女は王宮で王太子の養育係として働いているのだけれど、貴族ではないんですよね? アルトワ伯に見下されているように、一介の軍人の娘にすぎないんですものね? で、どの程度の暮らしをしている平民なのでしょうか。ロナンみたいに食うや食わずではなく、ロベスピエールたち革命家レベルのプチ・ブルジョワなんでしょうか? ちゃんと教育があったりするような?
だとしたら彼女は貴族をどう考えていたのでしょうか? 革命家たちはむしろ近親憎悪のように貴族を憎んでいる、というようなことをペイロールは言っていますが、オランプはどうだったのでしょう? そもそもどういう経緯で今の職に就いたのでしょう? そのとき何をどう考えていたのでしょう? 働いてみたあとどう考えるようになったのでしょう?
今は王妃に心酔して忠誠を誓っているようだけれど、それは何故? アントワネットが意外といい人で母親としてちゃんとしていたから? 本当に? それだけで? そのあたりの説明が全然ないので、オランプの基本的な、そして心情的な立ち位置がよくわからず、のちにロナンとの恋に何が障害となっているのかが見えづらくて、引っかかるのです。
ふたりとも平民同士なんだったら身分違いって問題はないけど、ロナンは王制打倒を謳う革命家たちの仲間でオランプは王宮に仕える人間で、という立場の違いはもちろんわかりますよ? でもその立ち場がオランプにとってどの程度大事なものなのかが見えないままに話が進むから、そのせいでロナンとの恋に簡単に突き進めないことに納得がいきづらくて、結果、萌えづらいのです。もったいない。
全体としてこの物語は自由をテーマにしていますよね? なのにヒロインが何に囚われていて、自由になれなくて、主人公との恋に突き進めないでいるのかを明示できていない、というのは構造として問題だと思います。
宝塚版ではアントワネットとフェルゼンのデュエットに改変された「許されぬ愛」がもともとオランプの歌で、それを戻した、というのは確かにオランプのヒロインとしてのポジション・アップにいいとしても、新規に足されたのがロナンと革命家たちの「革命の兄弟」だってのは「そこじゃない」感が私はしました。だって彼らの友情を強調しても意味なくないですか? だってのちに彼らは決裂するんじゃん。そのあと再度同じ目的のために集うんじゃん。その流れはそれでもう十分でしょう。革命家たちが同情か興味か話の都合か知らないけれど食い詰めたロナンを拾い親切にし友達扱いし、けれど実はそこには差異があって…というのはもう十分描かれていると私は思う。足すべきはロナンとオランプが恋に落ちるもっと具体的なエピソードだったり、オランプとアントワネットの出会いの場面だったりするべきだったのではないでしょうか。オランプのヒロインとしてのポジションをもっと補強しないと弱い、と私は思うのです。
ヒロインが立つと、主人公もまた立ってくるのでしょうが…
今回、「ロナンがいかにも農夫って感じでいい、これが正解」というような評判をよく聞いたのですが、私はそうか?と思いました。そりゃ、綺麗なお衣装を着てキラッキラでとても農夫に見えなかったまさおと比べたら今回のロナンは薄汚れた服を着ていたけれど、農夫というよりはなんかこう…といモニョる感じでしたし(まあ実際には農夫なのはロナンの父で彼自身は農夫ではないのですが)、小池くんがどうだったのかは観られていないのでわからないのですが、加藤くんはとてもタッパがあって周りからまさにアタマひとつ抜けていてすごくヒーロー然としていて、言葉は悪いけど悪目立ちして見えるという意味ではまさおと同じじゃない?と思ってしまったのですね。東宝『ロミジュリ』で城田くんロミオがタッパがありすぎて、やはり周りから悪い意味で浮いて見えたのと同じだと思いました。
ロナンは一般大衆代表みたいな立ち位置の主人公なんだけれど、そういう普通さみたいなものを表現するのって意外に難しいですよね。ドラマを引っ張る主人公としてはある程度の魅力とか特徴が欲しいものだし、でも飛び抜けたヒーローになりすぎると物語のバランスとしておかしい、という…片やアントワネットが世紀のビッグネームなのに対し、彼は名もなきに等しい一民衆にすぎなかった、だが…という構造の物語ですからね、これは。
そのあたりが、やっぱり今回も中途半端で、据わりが悪かったと思います。むしろ宝塚版の方が、「トップスターが演じる主人公だからね」と、宝塚歌劇独特のある種のファンタジー・コードに従うことで私は納得してしまえていました。そういうお約束がいっさいない、男女の俳優が普通に演じる外部の舞台で、リアリティを出すのは実は意外に難しいことなのではないでしょうね。そのあたりを役者任せにせず、もっと脚本・演出で丁寧に補完してあげてほしかったです。
ふたりの恋愛についても、たとえばフランス人にとっては主人公とヒロインが恋に落ちるのは理の当然かもしれません。宝塚歌劇ファンにとってもトップコンビが恋に落ちるのは同様に理の当然です。月組版ではトップコンビがカップルを演じる配役ではなかったけれど、とりあえずロナンとオランプが恋に落ちる流れなのね、というのはほぼ自明に思えました。それでもやっぱりトートツでした。そして今回もそこのフォローはなかった。
宝塚なら、まさおキラッキラだもん恋に落ちちゃうよー、とか思えます。ロナンのちゅーがすごかったからじゃないの?とかね。まさおはわかばともくらげとも実際にはキスしていません、だからこそ言えるギャグです。でも男女の俳優同士ならおそらく実際にもキスしているんでしょう、そしてそれはお芝居にすぎなくて、観客の大半にもおそらくキスの経験はあって、キスひとつでうっかり恋に落ちることなんて現実にはほとんどありえない、幻想にすぎないってことは身をもって知っちゃってるじゃないですか。だからそんなキスひとつじゃ納得できないんです。なんで?いつ?どこがよくて?ってなっちゃう。で、好きになったとするならそれでなんで問題なの?ってなっちゃう。そのあたりが、ぬるい。
やっぱり、もっと全体に丁寧に手を入れて、より納得しやすいように作ってほしかったです。群像劇でいいんだ、とかいう問題ではないと思うんだよなあ…
全体にホントに小手先だけの直し、目先だけ変えただけの感じに見えて、だったらまったく同じ振りをもっとすごいクオリティで見せてくれればいいのに、そうじゃないんだ?と思ったりもしました。ボディパーカッションとか、別に変えなくてもよかったんじゃないの?
セットも似てるし舞台上の役者の動かし方とかフォーメーションとかすごく既視感がありました。何度も言いますが、同じ素材を、まったく違う料理法で出している!みたいなものを期待しすぎた私が悪いのかもしれませんが、だったらフツーにおかわりください、って言いたくなっちゃったのです。
「武器を取れ」はもともとソレーヌの歌だったのですね。宝塚歌劇では、「夜のプリンセス」という大ナンバーをすでに歌っている娘3格に2曲目のソロを与えるよりは、男役スター(このときのカチャの番手は私としてはダブル2番手の上席だと認識していました)に一曲ソロを振りますよね、ということでこの変更は納得です。
今回はそれが戻っていて、かつ女たちがパン屋を襲うナンバーになっていました。
私が今回いいなと思いうっかり泣いたのは、このくだりのラストで、ソレーヌがパン屋と握手したことです。パン屋は意地悪でパンを売らなかったわけではなく、自分たちのためだけにパンをガメていたわけでもなく、本当に小麦がなくてパンが作れなかっただけであり、彼女たちの敵でもなんでもないのです。人は怒ると血が上って見当違いのところに怒りをぶつけてしまうことがあるものですが、ちゃんとその無意味さと真の敵を理解し、和解し、仲間になり、真の敵と戦うべくバスティーユに向かう…という流れには感動しました。彼女たちは、彼らは、単なる愚かな暴徒なのではない、正義を求めて真剣に戦う闘士なのだ…ということが、胸に迫りました。
このくだりは、宝塚歌劇でももちろんやれないことはなかっただろうけれど、尺やスターの比重から考えると確かにカットせざるを得ない場面だったかもしれません。それが復活したのなら、それはよかったです。
もうひとつ泣いた箇所は、アントワネットの「神様の裁き」でした。宝塚版のようにイメージとしての夫や子供たちが現れなかった分、ひとりの女性としての、人間としての、母性に流されすぎない真実の、心からの決断の場面に見えて、その潔さ、真面目さ、誠実さ、悲しさに泣けました。
窓枠をギロチン台に見立てて大きな刃が光って落ちる形にしたことも、模型の刃が落ちるだけよりずっとわかりやすくて、とてもよかったと思いました。
印象としてはそんなところかなー。
なのでもしかしたら私はねねたんの芝居に少し不満だったのかもしれません…
加藤くんはとてもよかったと思ったし、テルもとても素敵でした。歌もよかったし。
古川くんがスマートで素敵で、上原くんが腹に響く美声で、渡辺くんが凛々しくて。あ、娼婦の彼女が友達の妹、と知って驚くくだりでヘンな笑いがなくなったのはよかったな。
ソニンは私はすごく買っているのですけれど、今回はちょっとムキになりすぎている気がしました。あともっと可愛くしてほしい…ヘンに不細工にしなくてもいいじゃん…
吉野さんはさすがの気持ち悪さ(褒めてます)、坂元さんはさすがの達者さ、岡さんはさすがの濃さ。
あ、広瀬さんのフェルゼンは、意外にも私はありちゃんのイロイロ足りないながらもがんばっていた様子が懐かしく、こういうポジションやキャラクターの役をリある男性にやられるとけっこうむかつくんだな、と発見しました。フェルゼンって本当に難しい役ですよね…いい男に見せるのが難しい、というか。
豪華キャストで、このまんまの再演は難しいでしょうが、作品自体は再演を重ねてたくさんの人に観られる価値がある佳作だと思っています。だからこそ傑作に仕立て上げる努力を重ねてほしいなー。イケコ、忙しいんだろうけれど丁寧なお仕事をしてください、頼む。あと宙『エリザベート』はもしなんだったら全部なーこたんに任せなはれ。
あ、でも外部『スカピン』はまんまでもいいんじゃないかなーとか思っている私…なんなんだろうこの差は…理屈が通っていなくてすんません。こちらも機会があれば観てみたいです。チケットが転がり込んできますように!(他力本願…)
1788年7月、フランス・ボーヌ地方。旱魃が続いたため税金不払いとなった農民が投獄されようとしていた。その中にいた父を助けようとしたロナン(この日は加藤和樹)だったが、ペイロール伯爵(岡幸二郎)の指示で放たれた銃弾に父は倒れ、息絶える。いつか父の仇を討ち没収された土地を取り返すことを胸に誓い、ロナンはパリに出るが…
脚本・演出/小池修一郎、音楽監督/太田健、振付/桜木涼介、KAORIalive、Twiggz、美術・映像監修/松井るみ。
2012年フランス初演のスペクタキュルを15年に宝塚歌劇月組で日本初演、その帝劇版。全2幕。
月組版の感想はこちら。
うっかりしていたら帝劇での上演を見送ってしまい、大千秋楽間際にお友達のおかげで滑り込み観劇しました。加藤・夢咲・凰稀版を観ましたが、他のダブルキャストも観てみたかったです。
とても楽しく観ましたが、残念ながら、内容的には、私が個人的に期待しすぎていたせいか、宝塚版との差異があまり感じられなかったことがけっこう不満で、だったら宝塚で再演すればよくない?と思ってしまいました。すみません。でも外部で、男女の俳優を使ってやる意義が、宝塚版ではできなかったもっと別の何かがあるのかと思っていたのです。それがほとんどなく見えました。まあ私が勝手にそう想定していただけなのですが。
以下、毎度、私が勝手に考える「こうあるべきだったんじゃないの?」という話なので、「おもしろかった! 大満足! いったい何が不満なの???」というご感想だった方には読むのをあまりオススメしません。長いし(笑)。ちなみに繰り返しますが、私も公演自体はとても楽しく観たのです。でも、だったら叶わずともまさちゃぴカチャみや珠城さんでまた観たかったよ、と思った、というだけの話です。
もちろん、世の中には宝塚歌劇であるからこそ観ない、という人はいると思うので、外部で一般的なミュージカルとして上演された方がこの素晴らしい作品がたくさんの人に届いて、それはいいことなのでしょう。
でもなんか、宝塚版は原作ミュージカルからかなり改変されているものだという思い込みが私の中にあって、その改変の際に取りこぼした何か本質的なものが今度の舞台では観られるはず…と思ってしまっていたのですよ。それがなかったから、だったら宝塚版でいいじゃん、宝塚版をみんな観てよ、と思ってしまったのは、私が宝塚歌劇ファンだからなのでしょうかね。
『エリザベート』や『ロミオとジュリエット』と違って、今回は宝塚での初演と外部上演との間にほとんど時差がなかったし、最初からほぼまんまで行く予定だったのかもしれません。原作ミュージカルはミュージカルというよりコンサート・ショーの色合いが強く、日本での上演に向けてストーリー性を加えキャラクターを立てお芝居仕立てにする作業をきちんとしたらほぼ今の形になってしまい、宝塚歌劇としてのコードに抵触するような部分は特になかったので(番手スターの扱いの問題として歌の担当替えがあった程度で)、そこからの大きな改変やその揺り戻しとしての外部版でのさらなる変更はなかった、ということなのかもしれません。
でもだったら、そんなに出来のいい作品なら(そして私はこのミュージカルが大好きですが)、宝塚歌劇でしか上演しない契約にしちゃえばよかったのにな。これは商売としての採算度外視で、宝塚ファンとしての発言ですが。そういう作品があった方が、宝塚歌劇の財産になるでしょ? 宝塚は観ない、という主義のミュージカル・ファンが、この作品を国内で観たいと思ったら宝塚歌劇を観るしかない、となったらけっこう痛快だと思うんですけれど…卑屈で意地悪な発想ですかね?
まあ、まんまならまんまでもいいんですけれど、せめてもっとブラッシュアップしてほしかったです。そこまで完璧な完成品じゃないだろう、とは言いたい。今はなんかちょっと目先を変えてるだけじゃん、おんなじじゃん。こういうあと出しじゃんけんみたいなものじゃなくて、もっと格段により良くなっているものが観たかった。せこいマイナーチェンジにしか見えなかったし、それってコピーがどんどんボヤけていくような劣化感を早くも感じるんですよね…せっかくの豪華キャストが、私には残念に思えました。
結局、私は、やはりオランプが肝なのだと思うのです。
この作品は天に王侯貴族の代表としてマリー・アントワネットがいて、地に平民代表として農夫の息子ロナンがいて、間にオランプがいる構造になっていますよね。オランプはアントワネットに仕えているんだけれど、ロナンと恋に落ちる。そしてこの物語の主人公はロナンかもしれないけれど、観客の多くは女性であり、だからロナン恋の相手になるオランプに感情移入してお話を追う形になる。女性キャラクターの方が共感しやすいし、ふたりのラブストーリーが物語のひとつの軸になっているからです。
でも彼女の立ち位置がよくわからないままですよね。たとえば彼女は王宮で王太子の養育係として働いているのだけれど、貴族ではないんですよね? アルトワ伯に見下されているように、一介の軍人の娘にすぎないんですものね? で、どの程度の暮らしをしている平民なのでしょうか。ロナンみたいに食うや食わずではなく、ロベスピエールたち革命家レベルのプチ・ブルジョワなんでしょうか? ちゃんと教育があったりするような?
だとしたら彼女は貴族をどう考えていたのでしょうか? 革命家たちはむしろ近親憎悪のように貴族を憎んでいる、というようなことをペイロールは言っていますが、オランプはどうだったのでしょう? そもそもどういう経緯で今の職に就いたのでしょう? そのとき何をどう考えていたのでしょう? 働いてみたあとどう考えるようになったのでしょう?
今は王妃に心酔して忠誠を誓っているようだけれど、それは何故? アントワネットが意外といい人で母親としてちゃんとしていたから? 本当に? それだけで? そのあたりの説明が全然ないので、オランプの基本的な、そして心情的な立ち位置がよくわからず、のちにロナンとの恋に何が障害となっているのかが見えづらくて、引っかかるのです。
ふたりとも平民同士なんだったら身分違いって問題はないけど、ロナンは王制打倒を謳う革命家たちの仲間でオランプは王宮に仕える人間で、という立場の違いはもちろんわかりますよ? でもその立ち場がオランプにとってどの程度大事なものなのかが見えないままに話が進むから、そのせいでロナンとの恋に簡単に突き進めないことに納得がいきづらくて、結果、萌えづらいのです。もったいない。
全体としてこの物語は自由をテーマにしていますよね? なのにヒロインが何に囚われていて、自由になれなくて、主人公との恋に突き進めないでいるのかを明示できていない、というのは構造として問題だと思います。
宝塚版ではアントワネットとフェルゼンのデュエットに改変された「許されぬ愛」がもともとオランプの歌で、それを戻した、というのは確かにオランプのヒロインとしてのポジション・アップにいいとしても、新規に足されたのがロナンと革命家たちの「革命の兄弟」だってのは「そこじゃない」感が私はしました。だって彼らの友情を強調しても意味なくないですか? だってのちに彼らは決裂するんじゃん。そのあと再度同じ目的のために集うんじゃん。その流れはそれでもう十分でしょう。革命家たちが同情か興味か話の都合か知らないけれど食い詰めたロナンを拾い親切にし友達扱いし、けれど実はそこには差異があって…というのはもう十分描かれていると私は思う。足すべきはロナンとオランプが恋に落ちるもっと具体的なエピソードだったり、オランプとアントワネットの出会いの場面だったりするべきだったのではないでしょうか。オランプのヒロインとしてのポジションをもっと補強しないと弱い、と私は思うのです。
ヒロインが立つと、主人公もまた立ってくるのでしょうが…
今回、「ロナンがいかにも農夫って感じでいい、これが正解」というような評判をよく聞いたのですが、私はそうか?と思いました。そりゃ、綺麗なお衣装を着てキラッキラでとても農夫に見えなかったまさおと比べたら今回のロナンは薄汚れた服を着ていたけれど、農夫というよりはなんかこう…といモニョる感じでしたし(まあ実際には農夫なのはロナンの父で彼自身は農夫ではないのですが)、小池くんがどうだったのかは観られていないのでわからないのですが、加藤くんはとてもタッパがあって周りからまさにアタマひとつ抜けていてすごくヒーロー然としていて、言葉は悪いけど悪目立ちして見えるという意味ではまさおと同じじゃない?と思ってしまったのですね。東宝『ロミジュリ』で城田くんロミオがタッパがありすぎて、やはり周りから悪い意味で浮いて見えたのと同じだと思いました。
ロナンは一般大衆代表みたいな立ち位置の主人公なんだけれど、そういう普通さみたいなものを表現するのって意外に難しいですよね。ドラマを引っ張る主人公としてはある程度の魅力とか特徴が欲しいものだし、でも飛び抜けたヒーローになりすぎると物語のバランスとしておかしい、という…片やアントワネットが世紀のビッグネームなのに対し、彼は名もなきに等しい一民衆にすぎなかった、だが…という構造の物語ですからね、これは。
そのあたりが、やっぱり今回も中途半端で、据わりが悪かったと思います。むしろ宝塚版の方が、「トップスターが演じる主人公だからね」と、宝塚歌劇独特のある種のファンタジー・コードに従うことで私は納得してしまえていました。そういうお約束がいっさいない、男女の俳優が普通に演じる外部の舞台で、リアリティを出すのは実は意外に難しいことなのではないでしょうね。そのあたりを役者任せにせず、もっと脚本・演出で丁寧に補完してあげてほしかったです。
ふたりの恋愛についても、たとえばフランス人にとっては主人公とヒロインが恋に落ちるのは理の当然かもしれません。宝塚歌劇ファンにとってもトップコンビが恋に落ちるのは同様に理の当然です。月組版ではトップコンビがカップルを演じる配役ではなかったけれど、とりあえずロナンとオランプが恋に落ちる流れなのね、というのはほぼ自明に思えました。それでもやっぱりトートツでした。そして今回もそこのフォローはなかった。
宝塚なら、まさおキラッキラだもん恋に落ちちゃうよー、とか思えます。ロナンのちゅーがすごかったからじゃないの?とかね。まさおはわかばともくらげとも実際にはキスしていません、だからこそ言えるギャグです。でも男女の俳優同士ならおそらく実際にもキスしているんでしょう、そしてそれはお芝居にすぎなくて、観客の大半にもおそらくキスの経験はあって、キスひとつでうっかり恋に落ちることなんて現実にはほとんどありえない、幻想にすぎないってことは身をもって知っちゃってるじゃないですか。だからそんなキスひとつじゃ納得できないんです。なんで?いつ?どこがよくて?ってなっちゃう。で、好きになったとするならそれでなんで問題なの?ってなっちゃう。そのあたりが、ぬるい。
やっぱり、もっと全体に丁寧に手を入れて、より納得しやすいように作ってほしかったです。群像劇でいいんだ、とかいう問題ではないと思うんだよなあ…
全体にホントに小手先だけの直し、目先だけ変えただけの感じに見えて、だったらまったく同じ振りをもっとすごいクオリティで見せてくれればいいのに、そうじゃないんだ?と思ったりもしました。ボディパーカッションとか、別に変えなくてもよかったんじゃないの?
セットも似てるし舞台上の役者の動かし方とかフォーメーションとかすごく既視感がありました。何度も言いますが、同じ素材を、まったく違う料理法で出している!みたいなものを期待しすぎた私が悪いのかもしれませんが、だったらフツーにおかわりください、って言いたくなっちゃったのです。
「武器を取れ」はもともとソレーヌの歌だったのですね。宝塚歌劇では、「夜のプリンセス」という大ナンバーをすでに歌っている娘3格に2曲目のソロを与えるよりは、男役スター(このときのカチャの番手は私としてはダブル2番手の上席だと認識していました)に一曲ソロを振りますよね、ということでこの変更は納得です。
今回はそれが戻っていて、かつ女たちがパン屋を襲うナンバーになっていました。
私が今回いいなと思いうっかり泣いたのは、このくだりのラストで、ソレーヌがパン屋と握手したことです。パン屋は意地悪でパンを売らなかったわけではなく、自分たちのためだけにパンをガメていたわけでもなく、本当に小麦がなくてパンが作れなかっただけであり、彼女たちの敵でもなんでもないのです。人は怒ると血が上って見当違いのところに怒りをぶつけてしまうことがあるものですが、ちゃんとその無意味さと真の敵を理解し、和解し、仲間になり、真の敵と戦うべくバスティーユに向かう…という流れには感動しました。彼女たちは、彼らは、単なる愚かな暴徒なのではない、正義を求めて真剣に戦う闘士なのだ…ということが、胸に迫りました。
このくだりは、宝塚歌劇でももちろんやれないことはなかっただろうけれど、尺やスターの比重から考えると確かにカットせざるを得ない場面だったかもしれません。それが復活したのなら、それはよかったです。
もうひとつ泣いた箇所は、アントワネットの「神様の裁き」でした。宝塚版のようにイメージとしての夫や子供たちが現れなかった分、ひとりの女性としての、人間としての、母性に流されすぎない真実の、心からの決断の場面に見えて、その潔さ、真面目さ、誠実さ、悲しさに泣けました。
窓枠をギロチン台に見立てて大きな刃が光って落ちる形にしたことも、模型の刃が落ちるだけよりずっとわかりやすくて、とてもよかったと思いました。
印象としてはそんなところかなー。
なのでもしかしたら私はねねたんの芝居に少し不満だったのかもしれません…
加藤くんはとてもよかったと思ったし、テルもとても素敵でした。歌もよかったし。
古川くんがスマートで素敵で、上原くんが腹に響く美声で、渡辺くんが凛々しくて。あ、娼婦の彼女が友達の妹、と知って驚くくだりでヘンな笑いがなくなったのはよかったな。
ソニンは私はすごく買っているのですけれど、今回はちょっとムキになりすぎている気がしました。あともっと可愛くしてほしい…ヘンに不細工にしなくてもいいじゃん…
吉野さんはさすがの気持ち悪さ(褒めてます)、坂元さんはさすがの達者さ、岡さんはさすがの濃さ。
あ、広瀬さんのフェルゼンは、意外にも私はありちゃんのイロイロ足りないながらもがんばっていた様子が懐かしく、こういうポジションやキャラクターの役をリある男性にやられるとけっこうむかつくんだな、と発見しました。フェルゼンって本当に難しい役ですよね…いい男に見せるのが難しい、というか。
豪華キャストで、このまんまの再演は難しいでしょうが、作品自体は再演を重ねてたくさんの人に観られる価値がある佳作だと思っています。だからこそ傑作に仕立て上げる努力を重ねてほしいなー。イケコ、忙しいんだろうけれど丁寧なお仕事をしてください、頼む。あと宙『エリザベート』はもしなんだったら全部なーこたんに任せなはれ。
あ、でも外部『スカピン』はまんまでもいいんじゃないかなーとか思っている私…なんなんだろうこの差は…理屈が通っていなくてすんません。こちらも機会があれば観てみたいです。チケットが転がり込んできますように!(他力本願…)
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