駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

冬霞の巴里へ

2022年04月18日 | 日記
 私はかつて『カサブランカ』と『バレンシアの熱い花』でBLSSを書いたことがある気がするのですが(笑。リンクは貼りません、探さないでください)、男女カップルは初めてかも…あ、『王家に捧ぐ歌』のケペルとアムネリスのその後はストーリーラインだけ書いたかな。でもこちらとかを拝見するとむしろこのユリを、とか…イヤしかしそれだとミッシェル泣いちゃうからホント…とかとか、要するにまだまだ脳内が霞んでおります。
 ちなみにこれは12月28日のお話のつもりです。もちろん勝手な二次創作です、お気に障りましたら申し訳ございません。

※※※

 オーギュストの葬儀を済ませると、私は子供たちふたりを連れてパリを離れ、田舎の屋敷に移った。事業も家庭も順風満帆な男の自殺は、けれどパリにはよくあることとされて、ことさらに事件視されることもなく落着した。だが噂話は未だに何かと喧しく、私はすっかり疲れてしまったのだった。
 秋になってアンブルが学校へ上がると、オクターヴは自分の部屋に引き籠もるようになった。食事も部屋に運ばせている。アンブルの手紙が届くたびに部屋まで届けに行くが、すっかり青白くなった顔を一瞬見せるだけで、すぐに引っ込んでしまう。いずれはますます父親に似ていくのだろう。だが彼も来年には学校に行き、顔を合わせることがさらに減るのだと思えば耐えられた。
 この館は私の実家のもので、オーギュストはほとんど訪れたことがないのというのに、彼の幻は我が物顔であちこちに佇んでいる。白い三つ揃えを着て、静かに笑っているその姿を見かけることに、私は未だに慣れず、いちいち驚いている。自分の怯えが、罪悪感が見せている幻にすぎない、と頭ではわかっていても、振り払えないのだ。この地獄はいつまで続くのだろうか。一年の喪が明けようと、終わりは見えなかった。
 使用人たちも常にうつむき、言葉少なに行き交うこの館は、静かでほの暗く、まるで冥界の底にあるかのようだ。ここでゆっくり死んだように暮らしていくのが、私のような罪人には相応しいのかもしれない。
 イネスの姿は見えない。幻でいいから会いたい、と思うのに現れないのは、あの娘の魂がもっと明るく幸せなところにあるからだ、と思いたい。
 ふと、乾いた音がした。見ると結婚指輪が指から抜けて、床に落ちていた。痩せて指が細くなり、親指で触って回す変な癖ができていたところだったが、まさか勝手に落ちるほどだとは思わなかった。
 私は指輪を拾い上げながら、ふいにあの日のギョームの温かい手を思い出した。私はオーギュストに捻られて痛めていた手をかばい、グラスを取り落としかけたのだった。グラスも、そのまま倒れかけた私の体もギョームが支えてくれた。その手があまりに温かく、力強くて、私はほとんどしがみつくような格好になってしまった。そのとき、彼のシャツの胸元の飾りがこの指輪に絡んだのだった。外すまで、ギョームは私の手を取っていた。頼もしい、優しい手だった。手が離れるときに、私は痛みに顔をしかめてしまい、それでギョームはすべてを理解してしまったのだった。ギョームは私をひたと見つめて、絞り出すように言った。
「…こんなことは、許されない。もう耐えられそうにない」
「…殺すの?」
 そんな恐ろしい言葉が自分の口から出るなんて、信じられなかった。だがギョームはすぐに頷いた。
「ブノワに頼もう。事故か、自殺に見せかけるようにして…きっと上手くいく。神も許してくれるはずだ」
 そんなことをしても、イネスは戻らないとわかっていた。でも私ももうこれ以上こんな暮らしに耐えられそうになかった。私もそっと頷いた。そのときから、私たちは同じ罪を背負う共犯者になった。
 以前は家族の一員のようにパリの屋敷を頻繁に訪ねてきていたブノワは、田舎のこの家には顔を出さない。オーギュストの事業の引き継ぎに関する報告をたまに手紙で寄越すくらいだ。ギョームは手紙すら書いてこなかった。その方が何かと噂にされず、安全だろうし、彼にとってオーギュストは仮にも実の兄だったのだから、犯した罪を悔やんでいて、もう何もかもを忘れてしまいたいのかもしれなかった。
 だからもう会えないのは、仕方のないことだとわかっている。ただ、寂しいだけだ。
 風の便りに、警察での昇進を聞いた。彼は真面目で実直な人だ。報われて嬉しい。今ごろ縁談が降るように持ち込まれていることだろう。彼もそろそろ身を固めていいころだ。若く、可愛らしいお嬢さんが彼を支えてくれるといい。本当なら私がお相手のお世話をしなくてはならないのだろうが、とてもそんな気になれなかった。私は彼に、私だけの「弟」でいてほしかったのだろうか…けれどそれは無理な望みだ。そんなことを願ってはならないのだ。
 庭に出ると、冬枯れた景色はなおさら寒々しく、寂しかった。もうすぐ新年が来て、やがて復活祭へと季節は進むのだろうが、私はこの場所で身も心も凍りつかせ、いずれ粉々になって散ってしまうのかもしれない、と思う。
 裏木戸が軋む音に振り返ると、ギョームがいた。深緑の厚いコートをまとっているが、唇が青い。この寒空に、まさか馬車ではなく騎馬で来たのだろうか。そしてこんな季節にどこで咲かせたものなのか、小さな薔薇の花束を手にしていた。
「クロエ、誕生日おめでとう」
 ギョームの温かい声が耳朶を打ち、あたたかな笑みに凍った心が解けていくのがわかった。
 彼が私の名前を呼ぶのを初めて聞いた。彼と初めて出会ったのは、オーギュストとの結婚が決まったころだった。だから彼はずっと私を「義姉さん」と呼んでくれていたのだ。
 差し出された花束を受け取る。誕生日のことなど、すっかり忘れていた。世界のここだけが色づいているかのようだった。私の頬も赤くなっていたに違いない。
「クロエ、結婚しよう」
 すぐには理解できなかった。何を言っているのだろう。この人はどこまで真面目で、優しいのだろう。彼にそんなことまでする義理などないのだ。それにそんなことをすれば、また周りに何を言われるか知れたものではなかった。
 それとも、私を疑っているのだろうか。そうやってそばに置き、監視しないと安心できないということなのだろうか。でもそこまでしてくれなくても、私は誰にも何も明かすつもりはない。これは私の罪なのだ。神が許しても、私は自分で自分を決して許さない。救われたいなどと、思うだけでも禁じていた。
 口を開く。だが言葉が出てこない。代わりに涙がぽろぽろとこぼれた。こんなときに泣くなんて、馬鹿で卑怯な女の手練手管のようで、自分が嫌になった。だが止められない。ギョームの笑みが大きくなった。
「…それで、いいの?」
 やっと口にしたときには、抱きすくめられていた。温かい腕の中で、きつく抱きしめられて、私は泣いた。
「パリへ帰ろう。新しい屋敷を構えて、一緒に暮らそう。アンブルとオクターヴが学校の休暇に帰ってこられる、あたたかな家庭を築こう。もし神のお恵みがあれば、私たちの子供を持とう」
 失われた命は戻らない、私たちの罪も消えない。これは一生背負っていく十字架だ。私たちが幸せになどなれるはずがない、なってはいけないのだ。
 これは愛じゃない。秘密と、欺瞞と、疑惑と、猜疑でこねくりまわされた、何かもっと別の打算、保身のための結婚だ。
 でも、もし…
 ギョームは身を退くと、掌を私の頬に当て、指で涙を払ってくれた。瞳が揺れている。彼にも、迷いも惑いもあるのだ。でも、もし…
 私はそっと目を閉じて、彼のキスを受け入れた。罪に罪を重ねる契約なのかもしれない。でも、もし…
 パリにはもう冬霞が出ているだろうか。その凍てつく寒さは、ふたりでいれば耐えられるものだろうか。社交界のうるさ方にも、なんと騒ぎ立てられることだろう。でも、生きていれば避けられないことだ。生きていればこその、戦いだ。
 パリへ帰ろう。パリで彼と生きていこう。その先に何が待つのか、今は霞んで見えないけれど。
 私は片手に花束、片手に彼の手を取って、館の中へ入った。




                                  To be continued …







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『メリー・ポピンズ』

2022年04月18日 | 観劇記/タイトルま行
 シアターオーブ、2022年4月17日12時半。

 20世紀初頭のロンドン。煙突から現れた煙突掃除用の箒を持ったバート(この日は大貫勇輔)がチェリー・ツリー・レーンへ誘う。バンクス家ではさまざまな問題を抱えていた。ジェーン(この日は深町ようこ)とマイケル(この日は高橋輝)は手に負えないいたずらっ子で、子守が次々とやめていくのだ。子供たちは自分で子守募集の求人広告を書くが、父親のジョージ(この日は山路和弘)に破かれてしまう。暖炉にくべられたチラシは煙突から風に舞い上がり、すると子供たちの希望にぴったりの子守、メリー・ポピンズ(この日は笹本玲奈)がやってきて…
 オリジナル音楽&作詞/リチャード・M・シャーマン&ロバート・B・シャーマン、脚本/ジュリアン・フェロウズ、追加歌詞&音楽、ダンス&ヴォーカル・アレンジ/ジョージ・スタイルズ、追加歌詞&音楽/アンソニー・ドリュー、訳詞/高橋亜子、翻訳/常田景子、演出/リチャード・エア、共同演出・振付/サー・マシュー・ボーン、舞台美術・衣裳デザイン/ボブ・クロウリー、音楽監督・歌唱指導/山口琇也。2004年ロンドン初演、18年日本初演のディズニーとキャメロン・マッキントッシュが共同製作したミュージカル。全2幕。

 原作小説未読、映画も未見。傘持って飛んでいる、クラシカルな格好の魔法使い?の子守?の話?…という程度の知識しかありませんでしたが、有名だし観てみたいとは思っていました。「チム・チム・チェリー」の歌と、それがこの作品のナンバーであることは知っていましたが。あとはスパカリなんちゃらの呪文の歌ね。
 この公演もコロナで初日が延びて、当初持っていたチケットが飛び、笹本玲奈に木村花代のウィニフレッドで観たくて選び直したのがこの回でしたが、土日の昼になんかするんじゃなかった家族連れ、子供連ればかりでロビーも客席もこんなにうるさいの久々だよ…とクラクラしました。暗くなると泣き出す子供もいるとかと聞くけど大丈夫なんだろうな、と心配しつつ臨みましたが、さすがにそれはなかったもののまあ右でも左でも前でも後ろでもしゃべるわ動くわ席を蹴るわ飲み食いするわ、タイヘンなのもでした。私の左の親子の娘はまあまあ集中して観ていて、話もわかっているようでちゃんとしたところで笑っていましたが、やはり隣の母親にときどきコソコソ話しかけていましたし、右の親子の子供はまったく座っていられなくて、にぎやかなショーアップ場面でも舞台に見向きもしませんでした。子供の視界とか空間把握能力ってものすごく限定されているんだろうし、テレビ画面で見る映像ならともかく、まあまあ遠くで何かどんちゃんやられていても、そもそも関心が向かないものなんですね…そんな年齢の子供を休憩込みたっぷり3時間(つまり子供用に配慮されて短く仕立てることをされていない演目でした)、ひたすら黙って座っていろと言うのは今の時代、むしろ虐待認定されるのでは…それでも、U25チケットとかはともかく子供料金なんてものはないんだろうから、一家四人で来たら五万円近くが飛ぶ超高級な娯楽に手を出せる家庭なだけに、情操教育にいいとか文化芸術の素養になるとか思って連れてきてるんだろうなあ、とか思うとその徒労(あえて言いますが)に頭が下がりますね。まあ観てなくても歌は聞こえていてリズムは感じているのかもしれないし、なんか楽しかったという記憶が残ればそれはそれでアリなんでしょうけれど…叱られっぱなしで苦痛だった、という子供も多かろうよと思うと、残念でした。でも映画など含めてファミリー向けイメージなのかなあ、それで宣伝してるのかなあ、なら客は来るよね。子役も実際に出ていますしね…
 でも、そんなわけで子供が嫌いな私ですが隣の親に文句も言わず黙っておとなしく耐えて観たわけですが、なんならうっかり泣きました。これは大人の童話なのでは…もちろんすべての大人には子供だった時代があるわけですが、でもそれは当の子供が観てもピンとこない、わからないものなのではないでしょうか。子供でなくなったからこそわかるようになる、というか。
 私がまず泣いたのは、ジェーンとマイケルがお小遣いの1シリングを父親に渡したところでした。その金額以上の価値が、その意味が、当の彼らにはおそらくわかっていないように、ジョージやそんな彼の姿を観て泣く私たちのようには観客の子供たちもわからないでしょう。偉いな、すごいことをするなとかは感じられるのかもしれませんが。
 だって結局のところこれはジョージの物語じゃないですか。厳しい子守に育てられて、困った大人に育ってしまった、かつては子供だった男の物語。それが、職場でスパカリ呪文を口走るまで人間性を回復させる。家族が幸せになり、メリー・ポピンズはもう必要でなくなる…そういうお話です。
 ラストシーン、ジェーンとマイケルはメリーを見送って「忘れないよ」と叫びます。私はそこにも泣きました。それは嘘なのです。というか守れない約束なのです。私たちはみんな、大人になると忘れてしまう。子供のころにこんな子守に見守られていたに違いないことを、みんな忘れてしまうのです。メリーは、子守は、ここではメタファーです。日本の家屋に煙突はないし、煤払いも子守もいません。でもどの国にもどの時代にもそうした存在が必ずいて、子供たちを見守り育て、そして子供たちは無事に育って大人になると、それを忘れるのです。思い出せるのは、こういう物語に触れるから。だから物語が必要なのです。これはそういう作品です。
 劇場を横切ってフライングで消えていくメリーを口を開けて見送る客席の子供たち以上に、私たち大人の観客こそが万感の想いでその姿に涙したのではないでしょうか。なので、楽しく拍手し、カテコに手拍子し、スタオベしました。
 メリー・ポピンズってのはこういうキャラなんですね。まっすぐ立ってパキパキしゃべる笹本玲奈がたいそうキュートでした。ダブルキャストは日本初演も演じた濱メグさん。バートのダブルキャストは初演ではロバートソン・アイ(この日は石川新太)だった小野田龍之介。スウィングやカバーもいて、子役も四人が交互にやっている、良き座組ですね。タップその他も楽しかったです。
 これからもお砂糖ひとさじ忘れずに、いろいろ楽しんでいきたいと思います。この公演も6月アタマの梅芸大楽まで、無事の上演を祈ります!



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『アンチポデス』

2022年04月16日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2022年4月15日19時。

 会議室に集められた8人は、リーダーであるサンディ(白井晃)のもと、「物語を生み出す」ためのブレインストーミングを始める。新たなヒット作を生むために、ゾクゾクするような、見たことがない、壮大な、集合的無意識を変えるような怪物級の物語を作り出すのだと、メンバーたちは必死で頭をひねるが…
 作/アニー・ベイカー、翻訳/小田島創志、演出/小川絵梨子。「声 議論,正論,極論,批判,対話…の物語」シリーズ第1弾。2017年初演、全1幕。

 …というようなことはプログラムのあらすじに書いてあり、私もざっと目を通した上で観劇に臨みましたが、実際の舞台ではこんなふうには明示されず、何がなんだかよくわからないなりにしばらく眺めているとこんなようなことなのかなーとなんとなく類推できるようになってくる…というタイプの芝居でした。ただこの「しばらく」が長いし、オチまで観てある程度なるほどねとは思いましたが、しかしなら90分でやってくれ、とは思いました。これまた120分の作品だとは事前に知っていて観ましたが(そしてだいぶ巻いていて実際の上演時間は110分ほどでしたが)、それでも観ていて長いなと感じたし、90分で終わると思えばまだその長さにもより耐えやすくなったろうと思うのです。いや、この長さによるストレス、わからなさによるストレスも計算のうちの芝居だ、とわかってはいるんですけれどね。
 実際、あくびも身じろぎの音もよく聞こえたけれど、一方でよく笑い声が上がる客席でもありました。私は、作品の意味そのものがまだよくわからない状態なのに、そこでちょっとくらいユーモラスなことが行われていたからってよく笑えるな、とあきれたくらいなんですけれどね…まあいい歳になった人でもドリフで笑うようなことはあるんでしょうけれどね。
 結局のところ、近未来のような平行世界のような世界のお話で(タイトルは「対●置」の意味で、地球の中心を挟んで正反対の位置にある2箇所のことだそうです)、つまり現実には「物語」はこういうふうに製作されているわけではないんだけれど、でもたとえば映画やテレビドラマなんかの製作委員会、特にその宣伝会議のブレストなんかはこんな感じのノリになることを私は実際に知っているので、そういうものへの揶揄とか批判とかがあるんだろうな、とは思いました。そして物語は架空のものでも作るのは実際に生きている人間なので、彼らが送る実際の日々の暮らしにけっこう左右されるのだ、というある種当然のようなことも作者は言いたかったのでしょう。また一方で、架空のものを生み出すために実体験を赤裸々に語らせる、という手法の愚劣さや醜悪さについても言及したかったのでしょう。現実と違う場所の話であるにもかかわらず、このメンバーの中に女性がひとりしかいないこと、リーダーのアシスタントが女性であること、メンバー内の性差別やマウンティング合戦などについても、あえてやっていて批判的にあぶり出しているんだと思います。ただ、やっぱり不愉快でしたよね。それが解消されるとか懲らしめられるという展開ではないので。
 ただ、そのメンバー唯一の女性からオチが出る、というのは、やはり女性である作家が書いたこの作品のキモなのでしょう。まあでも、ちょっとたわいないかなとは思いましたけどね。要するに人は「昔むかし」で始まり「おしまい」で終わる物語を愛してきて、究極的にはそれでさえあればなんでもいいようなところがあって、もちろんその中にも巧拙の差はあるんだけれど結局それでさえあればいいんだし、下手なものでもなんでもいいならなんの苦労もなく作れるんだしこんなことしなくてもいいじゃんねえ?というようなことが結論なのではないか、と私は思いました。そしてそれは私にはあまりに自明のことに思えて、それを引き出すためのこの2時間のストレス…ということにくらっとした終演後だったのでした。

 この公演もコロナで初日が伸び、役者が一部変更になりました。千秋楽まで、どうぞご安全に…






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宝塚歌劇花組『冬霞の巴里』

2022年04月14日 | 観劇記/タイトルは行
 シアター・ドラマシティ、3月30日16時。
 東京建物BrilliaHALL、4月9日15時半、13日11時。

 19世紀末のパリ。ベル・エポックと呼ばれる都市文化の華やかさとは裏腹に、汚職と貧困が蔓延り、一部の民衆の間には無政府主義の思想が浸透していた街へ、青年オクターヴ(永久輝せあ)が姉のアンブル(星空美咲)とともに帰ってくる。ふたりの目的は、幼い頃に殺された資産家の父オーギュスト(和海しょう)の死の真相を探り、復讐を果たすこと。姉弟は母クロエ(紫門ゆりや)と父の弟ギョーム(飛龍つかさ)が手を組んで父を亡き者にしたと確信していたが、証拠はなかった。父の死後間もなくクロエはギョームと再婚し、ふたりの間にはミッシェル(希波らいと)という息子も生まれていた。一方でオクターヴとアンブルは田舎の寄宿学校へ入学し、その後オクターヴは新聞記者、アンブルは歌手として自立していたが、祖父の葬儀を機にパリへ帰ったのだ。姉弟は実家のヴァレリー家へは戻らず、下町のうらぶれた下宿屋に住むことにしたが…
 作・演出/指田珠子、作曲・編曲/青木朝子、編曲/竹内聡、多田里紗。『龍の宮物語』でデビューしたさっしーの第2作、花組3番手スターひとこの初東上主演作のファンタスマゴリー。全2幕。

 さっしー(それか、しゅーこりんと呼んでもいい。これはけーこたんとかなーこたんとかくーみんと同じ意味の敬称です。でも失礼に感じる向きもあるでしょう、そこは先に謝っておきます。だが呼ぶ)デビュー作の感想はこちら。世間は絶賛でしたが私はそこまでではなかったんだけれど…でもとてもよくできていたとは考えています。今回もとても期待していました。で、お恥ずかしながら以下かなり絶賛萌え萌えベースで語ります。そうでもなかった、という方は再びすみません…ちなみにネタバレ全開です。
 ところで私は小学校高学年くらいでSFと天文とギリシア神話にハマったオタクでもあり、なのでいわゆる『オレステイア』三部作に関してはこちらこちらこちらなどを観ています。今回もエリーニュス(咲乃深音、芹尚英、美空凛花。咲乃ちゃんの美声がたくさん聴けて至福でした…)の名前に関して「『FSS』じゃん」とか言っている人がいましたが、違うのよ元ネタが同じギリシア神話なのよ恥ずかしいからやめてこういう教養は抑えておいてもいいかもよオタクなら…と悶えました。
 とはいえ別に全然知らなくてもまったく問題ないかとは思いますが(本来作品とはそう作られるべきものでもあります)、以下ざっと元ネタというかギリシア神話のそのくだりの解説を僭越ながらさせていただきますと、まずトロイア戦争のギリシア軍側の英雄にアガメムノンという将軍がいまして、これがまあいわゆるマッチョなおっさんなんですね。で、いろいろあってとある女神の機嫌を損ねて風が吹かず、出航ができない。なので故郷から長女イフィゲネイアを、若き英雄アキレウスの花嫁にするからと騙して呼び寄せ、女神への生贄に捧げてしまうのです。そこからいろいろあって結局戦争はギリシア軍がトロイアを落城させて終わり、アガメムノンが意気揚々と故郷に戻ると、長女を殺されたことを恨みに思っていた妻クリュタイムネストラが愛人アイギストスと手ぐすね引いて待っていて、アガメムノンを殺してしまいます。ところがファザコン気味だった次女エレクトラ(息子が母親に執着するマザー・コンプレックスに対して、娘が父親に執着する病状を「エレクトラ・コンプレックス」と呼ぶのはここから来ています)と長男オレステスが、父を殺した母にキレて、母とその愛人を殺して復讐する…というような、陰惨なエピソードがあるのでした。
 これを下敷きに、ひとこの「秘めたる凶暴性」が見たいとのたまうさっしーが描く物語…そら期待していましたよ。ちなみに私はリアルでも弟がいて片想い気味のブラコンなんですが、それもあってかはたまたそれとは別にか、兄妹より姉弟に断然萌える派です。ちょっと近いかなというところではコクトーの『恐るべき子供たち』とかね。なので本当にワクテカでした。
 ただ、私は星空ちゃんが苦手なので、そこだけは心配していました。コンビで押される中では華ひっとんならひっとん派でしたし、今のあわ星空ならあわちゃん派なんですよ…プログラム位置もラインナップ位置もヒロイン扱いでしたが、しかしここに関しては脚本含めて「私の観たいエレクトラがいなかった」という意味で辛口になっております、すみません。
 だってこれはひとこオクターヴに「僕だけの姉さん」と言わせる大正解ゴールがあること以上に、その裏で、オクターヴを「私だけの弟」に堕としていくアンブルの物語が、その裏に透けて見えるべきだったのではないの…!?とないものねだりをする私なのでした。別箱なら娘役が上級生なのもアリなんだから、時空ゆがめて花乃ちゃんとかゆうみちゃんとか下級生でもかのちゃんとか、つい夢想しちゃいましたよねえ…てか『Pプリ』は私はアレはアレでという企画だったと思っていますが、たとえばあの布陣ならかのちゃんアンブルにあやなヴァランタンにあみちゃんシルヴァンってことですかね(あみちゃんは当時でもすでにミッシェルではなかったろう…)何ソレ萌える…

 さて、舞台はひとこのロートーンの開演アナウンスから、いやその前の石畳に響く馬の蹄の音や雑踏の声なんかのSEからして素敵でした。別箱にふさわしくごく簡素な装置やセットの数で、でも必要十分でしたし、特に幕の隙間からの出入りが上手くて効果的だな、と個人的にすごく感心しました。白を基調としたお衣装でエリーニュスやオーギュスト、イネス(琴美くらら)の幻が行き交う様子や、下町の貧民たちのゴスっぽいメイクなどの分け方も上手い。
 楽曲もとてもよかったです。またひとこがひとりで歌って踊って保つんですよねえ、さすがでした。ちょっと不思議な声で私は大好きなんですが、ケロリもカスレも立派な味なんだよなあ…あのソロのワルツ、いいですよねえ…!
 そして舞台や映像でありがちな、誰も客席に背中を向けるわけにいかないから長い食卓に一列に並ぶ羽目になる「最後の晩餐」めいた食事の構図も、実はとても上手く使われていて痺れましたし、クライマックスのこのくだりが音楽なし幻たちなしで進む演出にも痺れました。1幕ラストに「見ていますか父さん!?」と呼ばわってもオーギュストの幻を出さないところとか、ニクいです。傘もよかった。ラストのスモークも、終わり方も。セイレーンたちの鬘のデジャブ感は、記号としてこれはもう仕方ないのでした…
 台詞に関しては、ちょっとその代名詞だと何を指しているかわかりづらいかも?とかその言葉の所有格を追加した方がわかりやすいかも?とかが数か所ありましたが、これはもう私的にはないに等しいレベルでしたね。スムーズでストレスがなかったです。あえて置かれているざらりさ、は別として。もう他人のものになっているんだろうにオクターヴが言う「父さんのデパート」とかね、素晴らしいですよね。アンブルに関する言葉の足りなさについては後述。まあここの記事でわかるとおり、私がどちらかというと饒舌好みすぎるのでしょう…
「春霞」という言葉はあるけれど、「冬霞」というのは造語なのでしょうか(※後注。冬の季語にもあるちゃんとした言葉だと教えていただきました。そしてパリの冬にも霞が出ることがあるそうです)。実際、パリの冬って乾燥して凍てついてそうで霞なんか出ないやろって気もするのですが、作中では雷雨やら雪やらが降ったりしてまあまあウェットな感じなので、作品の雰囲気に合っているのかもしれません。ラストに「真実がかすんでいく」みたいな台詞でタイトルを拾ったのも上手いな、と感心しました。てか今回わりと頻繁に感心しているんですよ私、ウザくてすみません。感心、って言い方がまた上からで申し訳ないんですけれど。
 プログラムを見ると「パリ」と「巴里」の使い分けがあるのがまたニクい。土地としてのパリと、心象風景というか回想の時空としての巴里、なのでしょう。これはいずれひとこがトップスターに就任した暁に再演して初日に「ただいま、この腐った街、パリ…!」と言った瞬間に、ファン爆泣きで爆竹拍手、という案件でしょう…!
 そしてフィナーレもよかったです! ただひとこの燕尾にはもっと飾りを付けてもよかった思う、赤の総スパンでもよかったくらいです。あえて飾りを付けなかった、のだろうとは思いましたけれどね。

 さて、では以下順に。
 まずはしーちゃんオーギュスト、素晴らしかったですよね。最近めっきり歌手起用されているしーちゃんですが、今回は歌はほぼ封印に近いくらいのほんの一節、でしたかね? ギョームとクロエのデュエットっぽい歌が、実はオーギュストとイネスが加わっていてカルテットでしたよね(ちなみにこの歌に入る前の食事シーンのあと、メイドたちが食器や椅子を片付ける様子にまた痺れましたね…! 単に小道具を片付けさせる都合、もあるかもしれませんが、貴族の暮らしってこういうところあるじゃないですか。使用人とは空間を共有していても、眼中に入れず別世界にいるような感じ…)。朗々たるソロがなくても、芝居もできる人なんで問題ないです、むしろしーちゃんじゃないとこんなふうにできない!という素晴らしさでした。
 オクターヴの回想の中の良き父として(しかしよくよく考えると自分の後継者として、みたいなことしか息子に言っていない、恐ろしいモラハラ父でもある)、白い三つ揃えで紳士然として登場する慈愛あふれる姿と、ギョームやブノワ(峰果とわ。この人もまた最近めっきりいいおじさん役者として組の戦力になってきていて、素晴らしい…! ナウオンでつかさっちが「似たおじさんふたりになっちゃわないか」苦心したとか笑ってましたが、全然違っていましたよちゃんとしていましたさすがでしたよ!)の回想に現れる傲慢な辣腕事業家の顔、クロエに対するモラハラ夫の顔、そして血みどろの(しかしこれもよくよく考えるとおそらくは彼が死に至らしめてきた相手の帰り血なのです)服で幽鬼のように舞台に漂う幻、亡霊としての佇まいと…全部違う。すごい。ラスト、彼がセンターを割って現れて、上手に主人公姉弟、下手にクロエとギョーム、ミッシェルとエルミーヌ(愛蘭みこ)の2カップルになったときの構図の美しさ、すさまじさったらなかったです。彼はずっとひとりなんだなあ…!
 ラインナップも全身白ではなく返り血バージョンのお衣装で登場するんですよね、こちらが本質の姿だってことですよね怖いわさっしー…!
 結局のところ彼がどんな人間だったのか、何故こんなにも極悪非道を重ねたのか、みたいな説明がいっさいないのも、いい。そのあたり、私はちょっと萩尾望都『残酷な神が支配する』のグレッグを想起したりもしました。真実なんて誰にもわからない、すべては霞越しに見えるものでしかない、というタイトルの拾い方の美しさよ…!
 そして専科になったゆりちゃんが、初めて他組に出て初めて女役を演じたクロエがまた、麗しくて深みがあって素晴らしいんですよ…! 新調のドレスも素敵でした。フィナーレも鬘が二種あると聞きましたよいいねいいね!(だが個人的な要望を言えば胸はもっと盛ってほしかった)
 ただ美しくある、ということができているのがまず、いい。キャラとしてもわりと言葉少ななところもとてもいい。でもクライマックスの場にはもうちょっと言い訳めいた台詞があった方がわかりやすかったかな、と思いました。その方が観客がこの物語、この展開に納得したり、理解する補助線になったと思うんですよね。ここはクロエにも、そしてアンブルにももうちょっと言葉があってもよかったと私は思いました。それまでが基本的にはオクターヴ視点で進められてきただけに、ね。
「ごめんなさいオクターヴ、私はあなたのいい母親じゃなかった。そもそもオーギュストのいい妻でもなかったかもしれない。でも、ギョームはずっと後悔してきたと言っていたけれど、私は自分がしたことを悔やんでいないの。だからといって私が正しかったとも思わない、だからあなたの責めは受けます。撃ちたいのなら、私をお撃ちなさい」
 そう言ってギョームを身を挺してかばい、オクターヴに胸を開いてみせるようなくだりがあってもよかったと思うのです。それはかつてオクターヴがヴァランタン(聖乃あすか)にしたのと同じ仕草…
 夫がよそに作った子供を愛せない妻、娘を死なせた夫を殺す妻、に共感を寄せてしまう女性観客は多いものだと思うので、その余地をしっかり与えてあげた方が、ここの展開によりカタルシスがあったろうと思うのでした。元ネタから大きく変わってくる部分だけにね。同様に、宝塚歌劇って男役が主人公を演じるんだけれど、観客は主にヒロインに自らを仮託して観るものだから、アンブルにもここで、あるいは全体に、もう少し言葉があってもよかったのではないかと私は思うのでした。しつこいですがこれは後述。
 1幕のギョームとのデュエットが色っぽくってさー、さすが上級生、たまらん!と悶えましたよね。そして相手役のつかさっちがまた本当にいいんですよ! これまたなんでもできる人だから、おじさん役始め手下・助手・弟役やらおもろい役やらを最近はやらされがちだったと思うんだけれど、本当は二の線が合う人だし、ヒゲがあろうともみあげがあろうとギョームってあくまで二のキャラクターなところがよかった! というかつかさっちの華と力量がそうさせていたんだと思う! もちろん相手役たるゆりちゃんの色気や美しさとの相乗効果で。芝居ラストの3カップルにはみんな違ってみんな意味があるんですよね。ギョームにも立派なサイドストーリーが見えました。てかクロエ様ヒロインでこの物語を逆に仕立てた作品が観たいくらいですよ…!
 彼が義姉にハナから横恋慕していたかは別として、ワンマンな兄に振り回されこき使われ虐げられて苦労してきたことがとにかく彼には重かったわけで、もちろん誤認逮捕とかは警察官としてあるまじきことで本当はそこでちゃんと公表し訂正し謝罪しなくちゃいけない案件だったのでそこは彼にももちろん罪はあるんだけれど、そこにさらにかさにかかってくる兄という名の悪魔がいて、彼はもう追い詰められてしまったんですよね。ギョームはオーギュストの弟になったこともあって、アイギストスよりもアガメムノンの弟メネラオスっぽさがありました。豪腕にーちゃんに振り回される苦労人の優等生タイプの弟、というのが私のメネラオスのイメージです。でもここが兄弟になったことで、『ハムレット』のイメージを重ねた人も多かったようですね(ハムレットの母ガートルードは夫の死後、その弟クローディアスと再婚します)。
 ところでギョームが子オクターヴ(初音夢。どなたかもつぶやいていましたが『ファントム』スミカの子エリックに匹敵する…あとスミカはその前にもオサの子役をやらなかったっけ、とにかくソレですよ、新進娘役が主役の子供時代をやるのはよくあるヤツですがその「恐ろしい子…!」ってなるヤツですよ素晴らしい芝居でしたよ。そういやまどかも組回りですでにやってたな…)と「ふたりだけの秘密」を持つくだりは、もしかしたら要らなかったのでしょうか…? なんか誰とでも秘密を作るこの魔性の美少年がすべての元凶では、な疑惑が出ちゃう気もしたので。ただ逆に言うと、なさぬ仲のクロエには邪険にされて、オーギュストも自分に都合のいいときにしかこの息子を可愛がらなかったのだろうから、そんな中で常に分け隔てなく手を差し伸べてくれるギョームの優しさ、まっとうさを表す良きエピソードだったのかもしれません。
「君は移り気だから…」とか言っちゃって、ギョームが本当にクロエを愛していて、でも引け目も感じていて、そしてクロエから愛されていることに関してはまったく自信が持てないでいるようなところが、もう萌え萌えでした。クロエが自分とともにいるのは共犯者だからだ、罪を共有しているからにすぎないのだ、と思い込んでいる節が彼にはありますよね。あんなにいい息子をふたりして育て上げているのにね。
 でもクロエが今もモテることは事実だろうけれど、アレコレの浮いた話は全部過去のことだと思いますよ。クロエは今では本当にギョームを愛しているんだと思います。でもクロエにもまた屈託があって、ギョームに隔たりを作っていたところがあったんだと思います。過去、どんなきっかけで、どちらが「オーギュストを殺そう」と言い出したんでしょうかね…想像の余地があるなあ。てかひとこの「姉さん…!」、らいとの「兄さん…!」でごはん三杯いけると思っていましたが、若きギョームの「義姉さん…!」も想像するだけでごはんさらに三杯いけますよね…誰か書いてよ薄い本!
 そう、早くもポストくーみんとか言われもするさっしーですが、くーみん作品に比べて圧倒的に余白があるところがいいし、そこが彼女の個性で美質なのではないかと思います。その「描かれなさ」はザルだということではない。ここでは重要ではないので割愛させていただきますが、ご想像にお任せしますね…という上品な余裕に感じられるのです。観客をいい意味で信頼しているとも言えるかもしれません。この余白に何を見るかで観客側の資質があぶり出されるようなところもあるような、もしかしたら恐ろしい作風なのかもしれません。だから刺さった人はみんなそれぞれ語りたくなっちゃうんじゃないかしらん…そして一方で、刺さらなかった人には散漫に思えてしまうのかもしれません。
 今回の物語を経て、ギョームとクロエはやっと全身全霊で愛し合い理解し合う真の夫婦になれたんじゃないかと思うと、ギョームと抱き合いながらハケるクロエのいじらしさにもキュンキュンしちゃいました。だってここ、ギョームは舞台を過ぎるオーギュストを見送り、やがて目を逸らして、一方でやはり舞台を過ぎるイネスを目で追うクロエが、やがて追うのをやめて、ギョームと支え合って引っ込んでいくんですよ…うっかり泣きました。どこにでもオーギュストの幻を見ていた彼らは、台詞にはなかったけれどふたりで眠るベッドにもその姿を感じていたことでしょう。けれどやっと、その呪いから解き放たれて、悪夢を見ずにふたりでゆっくり眠れるのではないかしらん…
 最初の夫は戦争で失い、次の夫はとんでもないモラハラ野郎でおそらくDV被害もあったんだろうし、長女を自殺に追い込まれ、そういう艱難辛苦を乗り越えて、やっと優しく誠実な、「私だけの男」ギョームを手に入れたクロエ、がこの物語の裏ヒロインだと私は思います。
 イネスもとてもよかったです。1幕は台詞なし、いい意味で上手く浮いてただ白く存在してみせる役どころです。なかなかに難しいですよね、でもそれがちゃんとできていました。そして2幕、主人公姉弟の長姉として急に存在感が与えられてからも実によかった。てか新公含めてこんなに台詞をしゃべるのが初めての娘役さんなんじゃないかと思うのだけれど、しっかりしていていい声で、感心しました。
 イフィゲネイアは英雄アキレウスとの結婚を喜んだわけですが、イネスは父に強要された結婚を嫌がる、としたのがまた上手い。これくらいのブルジョワなら政略結婚やお見合い、あるいは親が縁談を用意するのは常識的なことだったのでしょうが、他に好きな人がいる、としたところもミソですよね。ただのわがままで嫌がっているのではないのです。戦争の英雄がこの物語では悪辣資本家になり、かつ貴族の称号を手に入れるために娘に爵位持ちとの政略結婚を強いる父親、と変換されているのも実におもしろいです。ここには現代的な視点があると思います(残念ながらダーイシとかヨシマサについぞ見られないものです)。
 イネスの立ち位置が露わになってくるにつれて、これは父親に性的暴行を加えられ、それで自死する娘なのではないか、と想像した方は多かったようですが、そしてそうすることは簡単だったろうしわりとありがちとされる展開だったかと思いますが(ギリシア神話由来ならむしろオクターヴの母親はイネスなのでは、とまで考えた方もいるようでしたし)、そうしなかったさっしー先生を私は本当に推しますね。元ネタのギリシア神話はそれこそ近親相姦なんざ掃いて捨てるほど出てくる世界ですが、この作品に関しては必要ない性暴力は取り入れない、物語都合で無駄に傷つき殺される女性キャラクターを作らない、という作家の意志は正しいと私は思います。私たちはたとえフィクションであれ、必要以上に女性が傷つけられることにもうこれ以上慣れなくていいのです。
 ギョームとクロエの間に生まれてすくすく育ったミッシェル、がまたいい。今のらいとにちょうどいいのもいい。私は『花男』のときのF4への抜擢に、おそらくまだ右も左もわかっていないだろうけどなんとか健闘してるじゃん!といたく感心し、お茶会まで行っちゃって以来ずっと内心で応援しているのですが(なのでまあまあらいとセンサーがあるので、カフェ・コンセールの客のバイトにもすぐ気づき、ヤダ髭とかつけて変装しちゃってそんなに劇場なるものに行ってみたかったんかいミッシェル!いやバイトだってわかってるけどさ!と盛大にニヤニヤしちゃいました)、しかし以後与えられる役やポジションになかなか四苦八苦してるようにも見えて、密かに心配していたのです。『POR』とかも、まあアレはホンその他いろいろなところがアレだった作品だったかなと私は思っているのですが…あ、『元禄バロックロック』新公主演は健闘していたと思いましたよ、でもまだまだあっぷあっぷしていましたよね。でも本来はまだこのあたりのお役をやっているんで十分だと思うんですよね。
 かつこのお役がまた、らいとのいいところに当てて書かれたものだったと思うし、そしてらいともただニンでやっているワケではなく、ちゃんと作品の中の役の立ち位置、課せられた役割を考えて芝居をしている感じがしたのも、とてもよかったです。ファンの欲目かもしれませんが、頼もしく感じました。髪型もスチールを見たときはひいぃと思いましたが、舞台ではずっとよかったと思いました。あとは歌だな、ラストのあの一節はもっと聴かせなきゃいけない歌だからさー…
 でもホント、ここに「無力な存在でいる弱さを許してください」みたいな台詞を書くさっしーにもう惚れるしかなかったんですよね私は…ちょっとこなれていない、翻訳調の台詞でもしかしたら悪目立ちしているし、カットしても話には影響ないくらいの台詞なんだけれど、あえて置いてあるんだと思います。意味と意義のある台詞ですよね。オクターヴは親の仇討ちをしないと自分が弱い存在に感じられて、それが許せないでいたんでしょうからね。そこをこの弟に「弱くてすんません」とかあっさり言われちゃうと、そら立つ瀬ないよなーと思います。実に上手い。
 ミッシェルは本当に無邪気な、すくすく育った屈託ない坊ちゃんで、義理の兄のことが大好きで(同性の兄には懐くんだけど姉アンブルにはちょっとだけ腰が退けてる感じなのもヨイ。でもフィナーレで星空ちゃんをエスコートして出てくるのもたまらん!)、けれど自分が義兄を想うようには向こうはこちらを想ってくれていないこともきちんと感じている。おそらく彼がものごころついたころにはオクターヴはもう「田舎の寄宿学校」に行っていて、かつてのオクターヴにとってのイネスのように、夏と冬の長い休暇のときにしか家に帰ってこない存在だったのだろうけれど、でも大好きで、いつか心が通わせられるはずと思って待つ辛抱強さも持つ、本当にいい子なんですよ。こういう息子を育てたのだから、ギョームとクロエは、ときにオーギュストの幻を見ながらも、平穏であたたかな家庭を立派に営んでいたのだろうと察せられます。自分の跡を継いで警察に入れとも強要しないし、貴族の娘と結婚しろとも強要しない。エルミーヌはたまたま良家の令嬢だっただけで、ミッシェルが自力で見つけてきた恋人なのでしょう。そしてその婚約をもちろん反対したりしない。
 ミッシェルはオクターヴを好きで、でも彼に、父親を亡くしたこと以外にも屈託があることを感じていて、でもいつかわかり合えるときが来るかもしれないと待っている。そしてラストの年越しの食卓で愁嘆場の最中、「そうだったのか!」みたいな表情の芝居もしているんです。このあたり、両親のフォローで精一杯でエルミーヌにまで手が回っていない感じもしましたが、それも私はリアリティがあっていいなと思っていました(ファンの欲目かしらん…)。人によっては棒立ちに見えたかもしれませんけれど、あとエルミーヌを庇う素振りが見えなくてふがいないと感じる方もいたでしょうけれど、彼は彼で銃を持つヴァランタンに対してとかもちょいちょい反応してたりしているんですよ…私は見ていました!
 彼がエルミーヌにフられる、というかオクターヴがエルミーヌに変なちょっかい出して奪っちゃう、みたいな展開にならなくてホントーによかったです。そんなことになっていたらミッシェルが闇堕ちしちゃって私が泣いていました(笑)。エルミーヌはヘルミオネだから元ネタではオレステスとくっつく相手だけれど、オクターヴにとっては彼らはまぶしすぎて、とても手を出す気になんかなれない、優しくて苦しい存在だったのでしょう。ミッシェルの脳天気さにムカついてエルミーヌに声をかけたことはオクターヴも認めているんだけれど、エルミーヌに恋愛的な意味で揺れたことは一瞬たりともなかったろうと私は思いました。あのお散歩場面は彼には尊すぎて、むしろ礼拝に近いものだったのではないかしらん…ミッシェルも疑うことすらせず、エルミーヌに常に自然にエスコートの腕を差し出し腰に手を当てて、でも別に「俺のやろ」感を出しているわけではなくて、いつもにこにこしている様子が本当に健やかでよかったです。
 そしてエルミーヌのヒロイン力がまたすごいんだ…! 愛蘭みこちゃんは『元禄~』新公ツナヨシがめっちゃよかったのは印象的でしたが、やはりここまで大役をやるのはほとんど初めての娘役さんでしょう。新公ヒロイン経験者の都姫ここちゃんとあわちゃんの同期とか、どうなってるんだ花娘揃えすぎだろう…!(そして星空ちゃんはまだ新公ヒロを経験していない…!)
 可愛い、歌える、声がまろやかで台詞も綺麗、ちなみにフィナーレのバリッと強い表情もめっさよかった! 典型的な娘役らしい役だけれど、単にそれだけでこなしているのではなく、らいと同様に役の意味をちゃんと計算したお芝居をしているのが窺えたのがとてもよかったです。力量のある娘役さんだと思うなあ! どなたかが言っていましたがこのカップルだけ芝居が大劇場なんですよ。それは大味だということではなくてメジャー感が出ているということですね。そういう役まわりだしそれができている生徒だということだと思います。期待しかない!
 エルミーヌはおせっかいとも言えるくらいのパワフルさを持つ役なんだけれど、オクターヴに対して色めいた気持ちでやっているんじゃないところもとてもよかったです。だからミッシェルに対して後ろ暗いところもなくて、いたって平和なの。このコマドリさんたちはオアシスでないとダメなんです! エルミーヌはルミエール、光、希望、善良さや正義のメタファー的存在なのでしょう。でも単なる天使ちゃんじゃなくて、ちゃんと地に足ついた存在感があったのがとてもよかったと思ったのでした。

 さて、そんないろいろと問題を内包して歪んだ、しかしブルジョワで財政的には豊かで、社交界的にも華やかなヴァレリー家の世界とは対極の、下町の下宿屋の世界が置かれているのがまたよかったですよね。
 ヴァランタンのほのか、一皮剥けましたよねえ! バウ主演をこなしてみせたあとのいい別箱のいい2番手役、これはさらに弾みになりますよねえ!!
 確かに綺麗な顔立ちなんで今まではフェアリーっぽいことをやらされがちでしたが、ガタイはけっこういいし(というかそう見せるのも上手い)、男臭く作らせた方が良さが引き立つタイプだということがわかりましたね。ひとこオクターヴがブルジョワの坊ちゃんっぽく線の細さを生かした作りにしているので、着込んでガッチリ見せたヴァランタンが上から目線で低い声で肩なんか抱いて絡むとまあ色っぽいことBLめくこと! 「ほのか×ひとことか聞いてない!」と立ち上がりそうになりましたよ初見時(笑)。ゴツいメイクも似合っていて、眉に刀傷なんかあって目も利いて、さすが美人! 舞台写真買っちゃいましたよ…(笑)
 また、ダイナマイトを使った無差別テロとかまでやっちゃうようなアナーキスト、という一方で、実は彼もまた父親の仇討ちをしようとしていて…というのも実に上手い。主役に対する2番手格のキャラクターの在り方として、よくあるのはライバルか親友ポジションなんだけれど、こういう形ってちょっとないのでそれも新鮮で感心しました。要するに主人公と裏表になるようなキャラクターなのです。実に上手いと思います。
 またさー、下宿人のひとりで元は真面目な医学生で今はヴァランタンに心酔しちゃってより過激なアナーキストになっちゃってるっぽいシルヴァン(侑輝大弥)、ってキャラを置いてあるのがイイんだ! このあたり、凡百の作家なら若手スターに適当な役書いておきました、みたいなものになりがちなんですよ。でもシルヴァンにはもう一癖あるもんね、めっちゃいい。ほのか×だいやとかも聞いてない!と立ち上がりかけました初見時(笑)。さらに彼らに心酔してるっぽい新聞売りかつスリの少年シャルル(美空真瑠)、という置き方もね! この先、彼がヴァランタンたちの遺志を悪い方に継いで、さらに暗い目をしたテロリストになってパリの街をさらに悪くしていく未来が見えましたからね、恐ろしい布陣ですよね…!
 下宿屋の女将サラ・ルナール(美風舞良)がまたちょうどよかったのもよかったです。組長就任、お疲れ様です。なんかね、あおいちゃんが歌えるからって歌わされすぎちゃうことがよくあると思うんですけれど、今回はそうでなかったのがすごくよかったと思うのです。当人やファンにはもの足りなかったかもしれませんけれど。
 その分もう少しテレーズ(朝葉ことの)に歌わせてもよかったかもしれませんけれどね。この人はアンブルがいなきゃ自分がカフェ・コンセールの歌姫なのに、って思ってるタイプなんじゃないのかなと思うんですよね。あまりそういうふうに役作りしているようには見えなかったけれど。私はこの娘役さんの顔がわりとダメなんですけれど(ホントすんません)、歌手起用されるクチだとは把握しているので、そう振ってくるのかなーと思っていたのですがそこまででもなかったかな、と。なのでこのあたりはもうひとつ濃くてもよかったのかもしれません。まいこつ、凛乃さん、高峰くんなんかはさすがちょうどよかったかと思います。
 あとはやはりヒロさんね、上手いし起用の意味がありましたよね。説明臭すぎない説明のさせ方や、主治医がいるような裕福な家庭の見せ方、その医者から見た一見完璧で幸福そうな家族の歪みの見せ方、あのくだりでの設定のネタばらしなど、絶妙でした。
 そのヴァレリー家の友人、フェロー男爵夫妻が、ことに男爵夫人(春妃うらら)がまたよかったです。ついちょっと前に『ザ・ジェントル・ライアー』で水乃ゆりちゃんが似た感じの空気の読めない、あるいは読まない貴婦人役をやっていて絶妙でしたが、同じパターンですよね。これは同じで正しいんです。
 オーギュストがふたりもコブ付きのクロエと結婚したのは、当時の彼女が未だ若く美しかったこともあるとは思いますが、こういう爵位持ちと昔から知り合いの、上流階級出身だったからなのでしょう。男爵夫人はクロエとは女学校からの同級生、みたいな設定なのかなあ? でもきっとクロエはずっと内心で舌を出しつつテキトーにつきあってきたんでしょうねえ、って想像がつくのがまたおもしろいんですよね。『赤と黒』のさくさくとはーちゃんはユリユリしかったのに、この違いよ!(笑)小うららちゃんってなまじ美人ででも可愛いタイプなので、上級生になってもおばちゃん役ができないのが厳しいな、とか勝手に心配していましたが(冬星ママはいいセンだなと思いましたけどね)、こういう役まわりができるといいよな、とも思いました。カガリリとはまた違う仕事ができると思いました。
 でも剣術指南のくだりで割って入るところは、単なる天然とも思えないところがまた深い。オーギュストの悪行についてもけっこう知っていたのでは?と思わせたりとかね。でもここも特に描きすぎていない、その余白がいいのです。また夫の方もさー、慈善会の場面で秘密の恋とか歌いつつクロエと目配せしちゃったりしてるんだよねー、たぎるわー!
 オクターヴの同僚記者のモーリス(海叶あさひ)がまた、初見時には売り出し中の若手男役の役とはいえちょっとうるさくてウザくないか?と感じたくらいだったのですが、これもあえての演技だったんだろうし、彼がのちにギョームのスパイめいた役まわりをすることになるのもすごく上手いと感心しました。あとは見舞いのシーンの運び方とかね。ところでなんでここの舞台写真がないんですかね、寝台に拳銃、激萌えでしたけどね…!?

 というわけで、あとはやはり星空ちゃんかな…日に日に濃く深く上手くなっていると言う人もいましたし、似ていない姉弟という設定なのだし、一見妹に見えるくらいのこういう顔立ちの娘役さんがやった方が重くなりすぎず、塩梅としてよかったと思うと語る人もいましたが、私はもっと姉姉しい(笑)、濃ゆい、爛れた、上から目線の情念にあふれたエレクトラ/アンブルが観たかったので、なんかずっと脳内ダメ出ししながら観ているようなところがありましたすみません。歌とかとてもよかったんですけれどね…
 やっぱりなんかこう…守る振りして周りを遮断して弟を独り占めしてきた感じとか、作為的に手紙の回数を減らして弟をパリに誘い込んでいる感じとか、弟を振り回しているような、でもそれは弟の手を決定的に汚す事態を先延ばしにさせるためであるような…そんなふうに揺れる情念の女が観たかった、というのが個人的にあるので、このアンブルでは私は満足できなかったのです。登場第一声から「その言い方か? 違うのでは?」と思ってしまったので…これはもう単なる好みの問題です、すみません。
 彼女とイネスの間になんらかの屈託があったのかは、わかりません。異性の兄弟と違って同性同士ってまた特殊だし、クロエの愛情も最初の娘であるイネスに傾きがちだったのかもしれません。また、親の再婚時の年齢の違いもあって、イネスはオーギュストに懐かなかったけれどアンブルはそうでもなかった、ということなのかもしれません。アンブルはまだ学校に上がる前で、家にずっといる年頃だったというのも大きかったのかもしれません。そこで新たにできた弟の保護者役を買って出て、彼が汚れを知らないもうひとりの自分であるかのように、慈しみ守り育て、彼が自分だけを愛し信じ頼るように仕向けたのでしょう。「きっと違うお話だよ」と言う少年オクターヴに(この「お」がたまらん!)、最初に復讐の計画を吹き込んだのはアンブルだったに違いないのです。敵がいれば、結託できる。姉弟であれば、一生一緒にいられる…
 これは、オクターヴに「俺だけの姉さん」「ふたりだけの罪」「それでいい」と言わせることで「自分だけの男」を手に入れた女の物語、でもあるべきなのだ、と私は考えています。なのでアンブルはクロエを嫌っていたようですが、蛙の子は蛙というか同じ穴の狢というか、要するに得た結果が同じなのです。クロエはギョームを手に入れて、アンブルはオクターヴをものにしたのです。幸せ感みたいなものがだいぶ違うことになっちゃっていますけれどね…
 だからクライマックスのアンブルの台詞は、ちょっと足りないと私は感じてしまったのですね。まああそこで自分のそういう思惑をせつせつと語るのは変なのでそれはしなくていいんだけれど、今の「そうでないときもあった」みたいな言い回しの「そう」って何?みたいなわかりづらさもありましたし、なんかもっと違うことをここで言ってもいいんじゃないかなあ、と思っちゃったんですよね。クロエが自分の罪を認めるように、アンブルもまた懺悔めいたことを言ってもいいのかもしれない、とは思いました。
 なのに「ごめんね」とか「もうやめよう」とかなんやねん、とちょっと思ってしまったのです。私はアンブルはオクターヴに復讐と殺人を教唆し、彼の手を汚させることで後戻りできないようにし、お天道様の下を歩けない人間にすることで自分だけのものにしようとした、くらいのところがあると考えているのですよ。なのに「真実なんて誰にもわからない」みたいなことを今さら言い出すので、ちょっとバードン?って気がしちゃったのでした。彼女はそんなことはすべて承知のうえで、自分たちにとってだけ都合のいい「真実」を捏造し、それで壁を築いて「弟」を囲ってきたんじゃん、そういうセイレーンだったんじゃん…と思っちゃったんですよね。
 ただ、彼女はオクターヴがブノワを殺したところは実際には見ていないので、いざこういう愁嘆場を目にするとその醜悪さにたじろいだのかもしれないし、それこそクロエに理がありオーギュストに非があったのかもしれないということを突きつけられて動揺し、日和ったのかもしれません。実際の暴力に弱いのもまた女です。そしてこれ以上オクターヴの手を汚させたくない、と観念した、というようなこともあるのかもしれない。でもだとしたらそういう部分をもうちょっと語ってくれてもよかろうよ、と私は感じてしまったのでした。
 オーギュストが自分の父親でないこと、オクターヴが血のつながった弟でないことを、アンブルはもちろん知っていたわけですが、ずっと目をつぶってきたのでしょう。そうしてオクターヴにも黙っていた、つまり彼を騙していた。そうまでしてでも彼女はオクターヴを欲しかったのでしょう、どうしても。ブノワに対して愛人の真似事云々、みたいな台詞がありましたが、実際にはアンブルはかなり潔癖で、他の男となんか全然ダメなんじゃないのかな…とか想像したりもします。
 お互い寄宿学校にいる間、ずっと文通していて。実家には帰らなくて。歌手になったのはたまたまで、それこそ生業が必要だっただけで。オクターヴともずっと会っていなくて、手紙のやりとりだけで、このまま忘れられるんじゃないか、離れられるんじゃないか、その方がお互いのためなんじゃないかと迷うこともあって…だから手紙が間遠になったのかもしれません。わざと疎遠にして誘ったのではなく。そんな揺らぎも、見たかった。
 そして、オクターヴはパリに戻ってきてしまった…

 というわけで「宝塚に相応しい品格と甘さがある正にスター、その一方で、優等生で括れない強く鋭いもの」があるひとこ様(あっ)ですよ! なんかさあ、ホントさあ、ラファエルヨリトモ総司ロメロアイリーンもよかったんだけどさあ、ホント大きなスターさんに育ってきましたよね!! ちょっと線が細いかなとか、組替え前後も含めてポジション的に頭打ち感がないかとかいろいろ心配したりもしたんですが、イヤ杞憂でしたね作品運がいいっていうのは強いですしね!!!
 今のところ私の萌え台詞オブ・ザー・イヤーの暫定一位は「答えろよ!」ですよ。これは口説き文句かつ告白の言葉でしょうもはや…!
 てかこれまた教えていただいたんですけどひとこって8月8日生まれなんですってね。オクターヴのお誕生日も夏とされていましたから、お揃い設定なんでしょうか。というかオクターヴってドレミのドから上のドまでを1オクターブという、ソレ? つまり8音…?
 どこのオスカー・ワイルドかな?みたいな耽美的な退廃的な先行画像も素敵でしたが、蓋を開けてみるとそんなに病んだり荒んだりしたキャラじゃなかったところもとてもよかったと思いました。19年も復讐のことを飽きず考えてるとかホントは十分病んでるんですけど(笑)、でもホント根はってドレミのどから度をで、一生懸命「復讐しなくっちゃ!」って感じなのがいじらしくて微笑ましいくらいで、実にいいのです。下宿に来たところからそういう描写がされていて、ヴァランタンに対しておたおたしたり、でも一応年上っぽいからかちゃんと丁寧な言葉遣いをしたり、かと思えばシルヴァンに対しては妙にムキになって喧嘩売っちゃう感じになるのも愛おしい。テレーズにしなだれかかられたりしても邪険にはできず、一応ちゃんと相手はする、みたいなところもいい。もちろんやっと再会できたのになんかちょっと思てたんと違う…みたいになっちゃったお姉さんに対しても、スネて、当たって、でもすぐ謝って、笑い合っちゃったりして。はーカワイイ。
 エルミーヌに「特にない」と言って笑われるように、あるいはイネスに自分の本当の希望を願いなさい、と言われてやや呆然とするように、ラストの年越しの食事会で「誰か俺に命じてくれよ!」と叫ぶように、彼は実は空っぽです。アンブルが注ぎ込んだ復讐心で充ち満ちているようだけれど、実はそれも虚無なのです。
 それでも彼は結局は、ギョームを殺すことは思い留まりました。ヴァランタンを撃ったのはほとんど反射かなと思いますが、叔父を他人に殺されたくない、殺すなら自分の手で、とそのときは考えたのかもしれない。けれど叔父にも母にも事情があったことを知り、父の姿が、何が真実か見えなくなって、銃を手放した…
 それでよかったのです。ここでギョームを殺していたら、今度はミッシェルがオクターヴを父の仇と狙わなくてはならなくなるところでした。そういう復讐の連鎖は、終わらないし何も生まない。どこかで止めなくてはならないものなのでした(一方で、釈放されたシルヴァンはシャルルと落ち合って、ヴァランタンの因縁試合を続けるかもしれません。親の仇討ちなんてそんなにたいそうなものじゃないとしても、資本家や上流階級に虐げられがちな層の革命思想や自由主義などはまた別の意味で根深く強いものなのです。ヴァランタンの糾弾台詞はちょっとこなれていなかったけれど、こういう視点を取り入れること自体がそもそもとてもおもしろいと感じました)。
 アンプルとオクターヴが連れ子同士とされたこと、そしてこの展開とここから続くラストに、初見時、唸りましたねえ…つまりストーリーが『オレステイア』と違っちゃうんだけれど、それで当然なのです。そのままやるだけならそれは舞台を多少移そうとさっしー作品にはならない、あくまでアイスキュロスの作品です。でもこの素材をもとに、別に描きたい人間関係や人間の感情、ドラマがあり観客に見せたいテーマがあるから、作家は作品はしたためるのです。それが個性、作家性というものです。私はここを買いたいです。
 さてしかし、ギョームが伏せようと、オクターヴが人を殺したこと、彼の手が血で汚れていることに変わりはありません。ブノワが雇ったのだろうチンピラとはいえ、余分な3人も殺していることも事実です。司法で裁かれなくとも、彼がこのあと平穏に、幸せに暮らしていくことなど許されていいはずがありません。
 だから、ラストは彼への罰でもあるのでしょう。一見、「俺だけの姉さん」という、究極の相手を見つけたような幸せなラストにも見える。けれどこれは、神の裁きであり、またアンブルが仕掛けた罠についにオクターヴが堕ちたということでもあるのだと私は思うのです。アンプルは歌で人間を惑わせたセイレーンなのですから…
 本当は血がつながっていないのだけれど、「姉と弟」であるとすることで、家族だからずっと一緒、という免罪符が得られる。けれどそれはやはりオクターヴがアンブルに捕らえられたということだと私は思います。たとえ当人もそう望んでいたのだとしても。でも「それでいい」ですからね、「それがいい」じゃない。この後ろ向きな決断よ…!
 男と女になってしまうと愛がいつか冷めて悲しいから…というのは浅くて、真実の、永遠の、持続可能な恒久的な愛はある、とするのが宝塚歌劇でしょう! 現にギョームとクロエの未来には、ミッシェルとエルミーヌの未来にはそうした発展的な幸福があると見えるよう描かれているわけじゃないですか。なのに、主人公にその道を、可能性を、与えない。なかなかない、残酷なラストです。だが罪人の主人公に相応しい結末でもある。
 姉と弟の、ふたりだけ。もうどこへも行けない、世界に相手しかいない、罰。ひとつに戻って、一緒に眠り一緒に目覚めるようにはなるのかもしれない。けれど何も生まない、生まれない、時が止まったような、死んだような暮らし…
 普通は、生まれたときの家族から自然と旅立って、別の人を愛するようになり、その人と新たな家族となっていくものなのに。それが人間の成長というものなのに。なのに歪んで壊れた子供のままのふたりには、それができない。それをしない。ただふたりだけでいることだけを選んで、去る。その不幸と絶望とデッドエンド感、そしてそれらと表裏一体の危険な甘美さ…
 勧善懲悪でもなく、復讐が果たされたわけでもなく、主人公が成長したりもしていない、空っぽの中にさらに虚無の愛を詰めて終わる、不穏でモヤるラストです。だがそこがいい。仄かな暗さと仄かな甘さ、霞の向こうに消えていくふたり、幕…

 いやー、バリバリの御曹司のはずなのにこんなほの暗い演目が似合っちゃうひとこ様、すごいわー。てかホント目がイイんだよね、暗い光が宿るの。三白眼も効く。てか基本的にゼッタイ殺すマンだもんねニンが。なのに口とんがらせて拗ねるボンボンとかが似合っちゃうの、そういう甘やかさも持ってるの、たまらん。好き! 当人は役を引きずらないタイプなんでしょうね、カテコの挨拶がナゾのほんわか系ですもんね。そこもいい。好き!!
 宝塚歌劇の主人公はどうしても総受け系になりがちですが、なのでオクターヴくんも基本的にはそのポジションのキャラかと思いますが、フィナーレのひとこ様は絶対的左感を発揮して並みいる男役スターを端から総ナメ、圧巻でした。ラストにひとりで踊るパートを入れたのも素晴らしかったと思いました。相手のいないタンゴを踊る様子が、オーギュストと踊るオクターヴを思わせて鳥肌…というツイートも見ましたね。それもある。フィナーレとしてはだいぶ尺があるものでしたが、まったく飽きさせず目は足りず、素晴らしかったです。ラインナップもとてもよかったなあ、手拍子しやすく拍手が入れやすく…こういう点もとても大事だと思いました。
 無事に完走できてよかったです。生徒にも劇団にも、良き財産になった演目だと思います。あ、プログラム表3の写真が素晴らしいです、これのタイが乱れてるor解けてるバージョン売ってください言い値で買います!
 くーみんも3作目で大劇場デビューでしたかね、さっしーももうちゃんと準備できていると思うなあ。大劇場サイズの、さらに倍の数の生徒に当てたものを仕立てなきゃいけないし、もうちょっとカジュアルでわかりやすいものを作った方がウケるだろうけれど、そういう調節もちゃんとできるタイプだと思います。60分×2幕ではなく90分の1幕芝居、というのがむしろ一番の違いでしょうが、それも上手くこなすんじゃないかなー。すごいコメディとか、大ハッピーエンドものとかのアイディアもある人なんじゃないかとも期待しています。がんばっていっていただきたいです。新戦力は大歓迎なのです。
 どなたかが、大劇場で観たかった、生オケで聴きたかったと書いていましたが、確かにあのワルツのソロなんかはひとこのエモーションにブリリアでは録音演奏が当然追いついていない感じがすでにありました。れいちゃんオクターヴにまどかアンブル、マイティーのヴァランタンってのもハマりそうですけどね…でも今回はやはりれいちゃんはジェリーでまどかはデイルで、マイティーはホレスでよかったのでしょう。花組も安泰だなあ!
 次の本公演はまたなかなかのときめき案件っぽくて、楽しみです。ひとこはまたもや女性役だけれど、男装という一癖がありますし、ショーもあるので、ファンの方は引き続き楽しみでしょうね。新公はだいやとみこちゃんでどうかしらん…ヤダときめく…!!
 今は少しも早くスカステの放送が見たいです。ひとこちゃんがトップになればいずれ円盤化もされるんだろうけどさー…
 余韻に浸りたすぎて、連休には友達と語る会をセッティングしちゃいましたよね…でも星組が始まっちゃうからなあ、なーこたんがまた違った萌えをぶっ込んでくるだろうからなあ、ヅカオタ忙しいわ…タフでなければ生きていけません。
 引き続き感染対策に気をつけて(今日も私の『銀河鉄道999』のチケットが公演関係者の発熱で飛びました…さらば銀河鉄道…そして少女は大人になる…ってもう52歳ですけどね私)、シュッと劇場に通いたいと思います。みなさまの感想もお聞かせいただけたら嬉しいです!






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こまつ座『貧乏物語』

2022年04月11日 | 観劇記/タイトルは行
 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2022年4月10日14時。

 時は昭和9年(1934)3月。場所は東京都中野区相生町十番地の借家、拘留中のマルクス経済学者・河上肇博士の留守宅。妻ひで(保坂知寿)、次女ヨシ(安藤聖)はじめ元女中の美代 (枝元萌)や隣家の新劇女優クニ(那須凛)たち、女6人の物語。1999年初演、24年ぶりの再演。全1幕。

 河上肇という名もその著書に『貧乏物語』というものがあることもプログラムを読んで初めて知りましたが、国がいわゆるアカと呼んだ学者だの運動家だのを根こそぎ逮捕して拷問にかけていた時代があったことは理解しているつもりでした。そんな時代の、夫と弟と次女を逮捕された女性を主役に据えた女性だけの物語です。
 物語といっても特別な筋があるわけではなく、人々がちょっと行き来した数日間の日常の一コマを描いている感じかな。特に暗転も場面転換もありませんでしたが、3場ほどに別れていたかと思います。夫の面会に行き差し入れをし手紙を書き、簡素な暮らしの留守宅を守る女たちの生活の描写をしている作品です。リッチでは全然ないが貧乏というほどではなく、牛鍋をおごるくだりもあるので、それなりに、そして精神的にはとても豊かな暮らしをしている人たちです。貧しいのは彼女たちにこういう暮らしを敷いている国の精神の方、とでも言いましょうか…ホント、拷問ってなんやねんって感じです。
 でも今、再演されるに足る理由ができているような世相でもあるわけです。目を背けてはならない、逃げてはならない、政治に向き合わなければならない、と改めて思い知らされます。
 作品としては、そんなわけで、さしたる筋もヤマもオチもあるわけではないので、やや散漫な印象もなくもないです。でも女優6人がみんな達者なのと、立ち居振る舞いが美しいのに見とれているうちに終わるようなところもあるので満足でした。羽織を脱いで畳む、とか割烹着をまとう、とか正座する、座礼する、襖の開け閉てをする、荷物の紐を包丁で切る、火鉢にかけた鉄瓶のお湯でお茶を入れる…とかの所作がすべて、実に鮮やかでこなれていて自然で美しいし、何より着物の着方が、本当に昔の、普段普通に着ている女の人の着方で、素晴らしかったです。イヤすでに私は自分の目で見たことはなくて(祖母は着物姿がほとんどだったと思いますが、わりと疎遠だったので)、だからあくまでイメージなんですけれどね。でもそういう伝承って大事だなと思いました。
 次回公演は『紙屋町さくらホテル』、移動演劇隊のお話なのだとか。未見なので楽しみです。その次は『頭痛肩こり樋口一葉』で、以前でキョンキョンで観ましたが今回は貫地谷しほり。内容は綺麗に忘れているので(^^;)また観たいかな。たーたんもご出演。あとはみんな大好き若村麻由美。てか続投なのかな? 熊谷真実も。
 またハンズやニトリを冷やかしつつ、劇場に向かいたいです。





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