駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『天保十二年のシェイクスピア』

2020年02月19日 | 観劇記/タイトルた行
 日生劇場、2020年2月17日18時。

 江戸の末期、天保年間。百姓隊の隊長(木場勝己)が語り出す。下総国清滝村の宿場には二軒の旅籠が向かい合っていて、二軒を仕切る鰤の十兵衛(辻萬長)は老境に入った自分の後継を決めるにあたり、三人の娘に対して父への孝養を問う。腹黒い長女・お文(樹里咲穂)と次女・お里(土井ケイト)は美辞麗句を並べ立てて父親に取り入ろうとするが、父を真心から愛する三女・お光(唯月ふうか)だけはおべっかの言葉が出てこず…
 作/井上ひさし、作曲/宮川彬良、演出/藤田俊太郎。1974年初演、2005年には蜷川幸雄演出、宇崎竜童作曲で上演された、講談でおなじみの『天保水滸伝』にシェイクスピアの全37の戯曲をぶち込む「趣向」の舞台。全2幕。

 冒頭とラストで歌われる「♪もしもシェイクスピアがいなかったら」がなかなかに印象的な、というか楽曲がどれもとてもいい、和製オリジナル・ミュージカルかくあれかしというミュージカルでした。でも、歌詞にせっかく洒落が多用されているから理解させたい、ということなのかもしれないけれど字幕を出すのはどうなんでしょう…私は気が散るんで嫌いなんですよね。聴き取れる歌唱をくれよ、とは思いました。
 また、『リア王』『ロミジュリ』『ハムレット』『オセロー』そして『マクベス』や『夏の夜の夢』あたりの、有名どころはすぐわかりましたが、結局のところ水滸伝の方がピンとこないというか、侠客もの、無宿者ものって要するに今で言う「少年ジャンプ」とか「少年マガジン」とかのバトルもの、ヤンキーものなわけで、リアリティがないわけじゃないですか。だから登場人物の誰かに感情移入してストーリーを追うとか、共感してドラマに浸るとか、そういう親身な見方はできなくて、傍観者として展開を眺めるだけになってしまい、どこがどうシェイクスピアの作品かを探し見つける喜びはあるんだけれど、その「趣向」の楽しさの方が勝っちゃった舞台かなー、と個人的には思いました。萌えたり感動したり心揺さぶられたり…というのはなかった。でも長いけど、退屈はしませんでした。が、夢中になって集中して観たかといえば違う、というような感じです。
 ただ、例によって出てくる役者がみんな達者なのでそれには感心しましたし、知らない役者さんも多かったので勉強になりました。かわいこちゃんたちがちゃんと上手かったのもよかったです。
 ウラケンの登場がスターか!って派手さでしたが(笑)、王次って別にそんなに大きい役でもない気もしなくもなかったですね…あと次郎長との二役ってなんなんだ(笑)。
 それからすると高橋一生の三世次はちゃんと主役かなという気がしましたが、私は実は『リチャード三世』をちゃんと観たことがなく(翻案のいのうえシェイクスピア『鉈切り丸』は観ています)、だいたいの設定や展開とラストの有名な台詞くらいしか知らないで観ていたので、『リチャード三世』を観てみたくなりました。
 ちょっと話が脱線しますが、史実はまた別にして、リチャード三世ってすごく悪く描かれがちだと思うんですが、『ノートルダムの鐘』とか『オペラ座の怪人』とかと同様で、いわゆる不具者で悪役、みたいなキャラクターに対する根本的な捉え方が日本では違うものになるのではないかしらん、と私は常々考えていて、『リチャード三世』についてもそうなのかな、観てみていろいろ考察したいな、と思ったりしました。今回の三世次に関しても、また私が高橋一生が好きっていうのもあるにせよ、もちろん悪いヤツなんだけどなんかちょっとチャーミングにも見えるように演じられているものだから、その転落とか滅びを小気味よく感じて観る、みたいな視点にはなかなかなれないな、と感じちゃったんですよね。因果応報とか、天網恢々…みたいな爽快さ、正義が勝った達成感とかより、憐れみや、理不尽さへの怒りを感じてしまうわけです。作品としてはそれだと駄目な気もしなくもないのだけれど、どうなんでしょうね…?
 とにもかくにも、シェイクスピアはノースペアだし井上ひさしもノースペア、というのには同感です。というかクリエイターはみんなそうあるべきでそれを目指していますよね。この舞台もまた、ノースペアなものでした。美術は松井るみ。舞台の奥にバンドメンバーがチラチラ見えるのも良き趣向でした。

 ところで最後に全然ちがう脱線を。
 『リチャード三世』と言えば私は菅野文『薔薇王の葬列』(秋田書店プリンセスコミックス既刊13巻)をかなり前から愛読していて、これはシェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』を原案としている少女漫画です。
 最近の展開はややスローすぎて、連載が長くなるとたいていの作品はそうなりがちなんですがやや残念です。私はメガネ者なのでもちろん贔屓はバッキンガムですが、私の萌えパターンのひとつである最近の「両片想い」ターンも、ふたりがそれぞれ何をどう誤解し何に悩みけれど強がり素直になれないでいるのか、がわかりづらくしか描けていず、ずいぶんとモヤモヤしました。最新話で一応カタついてたからよかったけど(もはや「月刊プリンセス」を追っかける熱心さです)。
 で、この漫画のリチャード三世は、身障者というよりは両性具有の、そういう意味で「普通ではない」とされているキャラクターなのですが、この最大の肝となる設定があまり生かされていないのが私は不満なんですよー。特にバッキンガムとのあれこれ、というかぶっちゃけセックスでは完全にただの女性になっちゃてる。何故?
 このリチャードには乳房があるけれどペニスもある、ということなようなんですよね(実際には乳房の有無より、ペニスもあるけどヴァギナもある、とかの方が両性具有っぽいんでしょうけれど)。でも掲載誌が少女漫画誌だからか、ペニスが描かれないんですよ。上品な、一般商業誌のBL程度にも描かない。シルエットのトーン処理だかなんだかもよくわからない、ほぼほぼ空白としてしか描かれていないんですよ。これじゃ何があるんだかないんだかわからないので、描写として全然成立していないんですよね。目にしちゃった人が驚く描写はあっても、何に驚いているのかが明確にされていない。いや、「男でもあり女でもある」みたいな台詞はあるんですけれど、それって具体的にどういう意味なのかわかりづらいじゃないですか。何も描かれていない部分を見た村の男が「なんだこいつ?」と言っても、なんなら乳房はあるのにヴァギナがない、股間に何もない異形だから驚いているのか?とすら解釈できてしまう。でもそれじゃダメじゃないですか。せめてもっと台詞できちんと言わせればいいんじゃないのかなあ…少女漫画でも使用して大丈夫な言葉、単語はあると思うんですけど。男根とか陰茎とか?
 このリチャードは、ちゃんとした、普通の(あえて言っています、ご理解ください)、男性じゃないから、悪魔なのであり、人間ですらなく、王座にもふさわしくない存在だ…とされてるし当人もそう考えている設定なのに、そこがあいまいでどーするよ、と思ってしまうのです。というかこの人の性自認は男性なんでしょうか。でもケイツビーといいヘンリーといいバッキンガムといい、男性と情愛を交わしているので、性指向は同性愛? 
 バッキンガムが困惑しつつもリチャードの男の部分も女の部分も愛する…みたいな描写は、そりゃ多少BLめくだろうけれど少女漫画として全然上手く描けるものだと思うんですけれど、そういうことは全然なくて、ただの男女のセックスみたいにしかなっていないのが、私にはとても不自然に思えてしまうのです。それと、バッキンガムはリチャードが妊娠できるか知りたがっているけれど、リチャードには卵巣や子宮があるの? 生理の描写もこれまでなかったけれど…現実の両性具有には卵巣も精巣もあるケースもあると聞きますが。というかリチャード本人は精巣、というか睾丸の有無を気にしないのかなあ? 王になりたがっているのに自分が子孫を、というか息子を持てるかどうかほとんど気にしていないというのは、この時代を考えるとこれまた不自然なことのように思えます。ただまあリチャードは、富や名声や権力を求めて王位を欲し、また自分の子孫に受け継がせていきたいと考えている…というよりは、まず自分が、普通の人間として認められるためには王になるしかない、と考えている人なので、未来には関心がない、ということなのかもしれません。
 ところでペニスがあって勃起できるならアン・ネヴィルとセックスすることも可能なのではないのだろうか…性指向として、またバッキンガムへのフィデリティとしてしないということであれば、逆にアンとある種ユリユリしい友情を紡ぐことも可能なのではないかしらん…『紫子』みたいに、ね。てか私はアンが好きなんですよー、幸せにしてあげてほしいわー。怖くてこのあとの史実を調べられません。イヤみんな死んで終わるんでしょうけれど。
 ともかく萌え萌えで読んではいるのでなおさら、「ダーク・ファンタジー」とか煽られている架空のものにナニ息巻いてんねん、と言われたらそれまでですがじゃあこの設定なんなのよ、と言いたくなり毎度やきもきしているのでした。
 漫画は完結したら感想記事にすることにしているので、現時点では語る場所がなく、ここで吠えてみました。時代はちょっとズレるんでしょうが、ほのちゃんバウの『PRINCE OF ROSES』も楽しみにしています。ベスがお嫁に行く先ってことですよね、このあと登場してくるのかな? 楽しみすぎます!


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宝塚歌劇月組『出島小宇宙戦争』

2020年02月12日 | 観劇記/タイトルた行
 シアター・ドラマシティ、2020年2月8日15時(初日)。

 宇宙の真反対、地球によく似た星のよく似た国で、よく似た歴史を紡いできた人々が、パラレルワールドの出島で繰り広げる物語。江戸の町は、長崎の出島に外国人に混じって宇宙人が忍び込んでいるという噂で持ちきりである。事態を無視できなくなった幕府は、宇宙研究の第一人者であるカゲヤス(鳳月杏)に出島への潜入捜査を命じる。元は幕府の天文方であったカゲヤスは、宇宙に夢中になるあまり公儀の金を使い込み、幕府禁制の品々を外国から密かに仕入れていた罪で捕らえられていたのだ。乗り気ではないカゲヤスだったが、宇宙人の狙いが自分が隠し持つ師匠タダタカ(光月るう)の日本地図だと聞き、兄弟子のリンゾウ(暁千星)とともに一役買うことにする。タダタカの地図は日本の正確な海岸線を描いたもので、リンゾウが測量した蝦夷地を書き加えれば日本地図として完成する。もしもこの地図が外国の、ましてや宇宙人の手に落ちることになれば、外敵の侵略は免れない。カゲヤスとリンゾウは出島へ急ぐが、彼らを待っていたのは、町全体が奇妙な幻想未来都市へと変貌していた光景だった。人々の熱狂的な支持を得ていたのは、瀕死の病人を魔法のように救う西洋人・シーボルト(風間柚乃)だった…
 作・演出/谷貴矢、作曲・編曲/太田健、高橋恵。奇想天外なデジタル・マジカル・ミュージカル、全2幕。

 タカヤ先生の前作の感想はこちら、デビュー作の感想はこちら
 SF者として、人間とか科学とか世界とか未来に対する先生の考え方やセンスが私は好きです。今回のザッツ・サイバーパンクなセット(装置/國包洋子)といい、先生の萌えやロマンの在り方も実にわかりやすい。ただこのままでは大劇場デビューはつらいと私は考えていて、その点は心配しています。ニッチな好みやツボは主にスターのファンが観に来る別箱でしか通じないもので、大劇場でやるならもっと大きな意味でのロマンチックさと、何より確固たるロマンスが必要だと思うからです。そのチャレンジは、次回以降ぜひがんばってみていただきたいです。
 今回の作品は、演目発表時はそのタイトルと公演概要だけでファン界隈をざわつかせたものでしたが(笑)、私は『はいからさんがこけた』を思い起こしました。あれは太陽を真ん中にして地球と反対側にあるもうひとつの地球に、紅緒さんがワープしてしまう番外編でした。その地球にも少尉や編集長などみんないるんだけど、みんなちょっとずつ違っていて…という設定です。今回は、まあ宇宙の反対側云々は特に説明されていなくて、またどうでもよくて、パラレルワールドというかなんちゃって幕末時代のお話、というんで十分だったかと思います。
 前日に星組大劇場公演の初日を観ていたこともあって、二日続けてオリジナル新作を観ることになったので「どうなるんだろう?」と興味深くおもしろく観ました。これも、予想がつかず展開が読めずオチが簡単には想像つかず、楽しく見守れましたし、おもしろく見終えました。ただ、ちょっとロマンスとドラマが弱かったかなーとは思います。でも、素敵な作品でした。

 ちなっちゃんが持つと望遠鏡もバズーカ砲に見える…などと先行画像やポスターで言われていましたが、本当に撃っとるやないかーい!という衝撃の登場シーンでしたね(笑)。パンクでロックな謎の和装が似合うのは素敵。そして本当に声がいい。ちなみに開演アナウンスのあっかるい声音もかなり印象的でした。
 ただ、カゲヤスって、まあ宝塚歌劇の主人公像ではありがちなんだけれどわりと受け身のキャラというか、周りがバタバタ騒いでいるだけで真ん中はわりとただ白くたたずむのみ、みたいなことが多いんですけれど今回もそのパターンで、意外にしどころがなさそうにも見えました。回想シーンが多いこともあって、実際の芝居をするのはるうちゃんだったり若かりしカゲヤス(蘭尚樹)のまおまおだったりして、ちなっちゃんはただそれを眺めているだけのときも多いように感じたんですよね。
 カゲヤスは師匠のタダタカを死なせてしまったことにものすごく責任を感じていて、だから幕府の命じた蟄居閉門に甘んじて従っているところがあるんだと思います。そんな彼が、ずっと会いたいと思っていた師匠の想い人と出会ったりリンゾウと和解したりなんたりを乗り越えて、再び天文学者としてやる気を出ししっかり人生を歩み出すまでの物語…という位置づけをもっとしっかりしないと、観客は観ていて「ところでこれってなんの話? 何がゴールになる話?」って不安になっちゃうと思うので、そこはもう少し親切に枠組を作ってあげればいいのにな、と思いました。だって、月に帰っちゃうかぐや姫とのせつないラブストーリー!とかでは全然ないからさ。わかりにくい、とらえづらい。
 そう、なので物語のヒロインはどちらかと言うとるうちゃんタダタカになっちゃってるんですよね、だって主役も2番手も師匠のことが大好きで、師匠の死の真相を巡って対立してるんだもん。そこにドラマができている構造になっちゃっている。なんせヒロインのはずのタキ/カグヤ(海乃美月)もタダタカの恋人です。カゲヤスにとってカグヤは父親のところにいた遊女で師匠の恋人、なんですもん。そりゃ笑顔がいいからってすぐラブ!とはなりませんよね。もちろんそれが月からのスパイだとわかって、地球人としては対立せざるをえず…ってドラマも生まれるわけですが、なんにせよ恋愛、ロマンスは生まれにくい構造に、ここもなってしまっているんです。ラブストーリーとして歪であることは、宝塚歌劇の作品としては弱いのです。だからこのまんまのノリでは大劇場は無理だぞタカヤ?と言いたいわけです(ホント上からですみません)。
 ただ、くらげちゃんはとてもよかった! 私は彼女はずっと地味で華がなく見えて苦手で、ちゃぴの時代から万全の2番手娘役でしたがそれでも次期にさくさくが決まって大喜びでしたし当然だと思いました。それでもバウヒロインをやるのか、と思ったし、『アンカレ』も上手いとは思ったけれどやはり私には地味で、どうも好きじゃない…と感じました。でも『IAFA』のロミーはとてもいいと思いましたし、卒業しちゃわないでくれてありがとうと思いました。そこからさらに好感度アップ!の今回でした。上手い! 可愛い! 綺麗! こういうすっとんきょうでミステリアスな役を嫌味なくてらいなくやれる確固たる技術がある、そして味がある! かつ華が出てきた!! 本当は主人公とがっつりロマンスを演じてほしかったのに、タダタカへの想いを募らせたりするさまにキュンキュンしちゃいました。かつてまさおが愛用したような高速セリでシュッといなくなるのもせつなかったわ…! ホント毎度偉そうな言い方で申し訳ありませんが、一皮剥けたというか確変した気がしました。娘役力が発揮されてきたよね…! ただトップの座はホント、タイミングと運と相手役との相性次第だからさ…たとえその座が巡ってこなくとも、大きな花をこれからも咲かせていってほしいと思います。
 ありちゃんリンゾウはカゲヤスの兄弟子ですが、ふたりの演技の質というかスターとしてのタイプの違いのせいでちゃんと兄弟子に見えていたのがよかったです。実は…というところがある役なのもよかったし、大ナンバーもよかった。でもありちゃんならもっとできるはず、とも思えちゃったかなー。あと「隠密」って変じゃない? どうしても誰か雇い主がいて、その人の命で潜入捜査しているような印象が出ちゃうと思うんだけど、どうもそういうことではないっぽいですよね? これからも天文学者を隠れ蓑にして、幕府の政や世の成り行きを見届けていく…というようなことを言いたいのかな?とは思ったのですが…
 ところでそもそもの話ですが、我々現代人にとっては地図ってあってあたりまえのもので珍しいものでも貴重なものでもないんだけれど、最初に地図ができるまでは手間暇かかったり測量や天体観測の高度な技術が必要で大変なことだったんだし、外国の手に渡って悪用されたら地形の研究とかされてここが攻めやすいとかバレて下手したら侵略されちゃうから危険なのだ…ということはもっと強調しておかないと、地図を巡ってみんながあーだこーだする意味がピンとこなくてなんだかなー、となるかなと思いました。
 さて、大ナンバーと言えば「ココマジデジマ」と歌ってのけるおだちんシーボルトも絶妙でした。てかネモ船長のお衣装着せてピアノ弾かせたのわざとでしょタカヤ! イヤ実際に日本にピアノを持ち込んだのはシーボルトだそうですがしかし!! 腹筋にキタわー。宇宙人の振りをして出島の人々を煽動している西洋人…ということで、そのうさんくささが存分に出せていました。上手い!
 あとヘレーネ(蘭世惠翔)が絶品だった! アンドロイドだ、みたいな台詞がありましたっけ? とにかくスゴツヨででもメイド服、という趣味全開さがたまらないし、娘役に転向したばかりでまだまだ濃くてポジション迷走してるよ!?な蘭世ちゃんにすごく似合いのお役でした。あとあと、アルテミス菜々野ありとセレネ詩ちづるも大正解! ことにセレネはすらりと背が高く脚が細くてたまらん!! かーわーいーいー!!!
 ツクヨミ(梨花ますみ)の異物感もさすがの配役でした。
 そしてゆりちゃんタダアキラ(紫門ゆりや)もよかった。将軍家の老中で、公務員代表というか一般良識人代表というかなお役で、その意味をちゃんと体現してみせていました。
 その部下のヌイノスケ(英かおと)うーちゃんがまた良くて、仰天しました。まず、刑事のコンビとか、よくあるタイプの単なる部下かと思っていたら実は…というキャラクターなのもよかったし、それをすごく上手くやってのけていました。これまで新公や別箱でもちょいちょい大きく起用されているのに前に出てこないなあ地味だなあと思っていて、『IAFA』新公主演もやはりちょっと地味だったかなあと思っていたのですが、その経験がついに生きたか、ぐっと押し出しが良くなってきた気がしました。成長する時期なんだなあ。
 さちか、ぐっさん、ヤスに江戸と出島の町民代表みたいな狂言回しとコント(笑)を任せるのも、上手い。手堅い。さすがすぎて唸りました。
 シーボルトの助手かな?チョウエイ(彩音星凪)もいい案配でした。ホント顔がいい、でもおもろい。大事。
 あとはギリギリがやはり上手くて、フィナーレ群舞でも垢抜けていて目立っていて仰天しました。

 そう、フィナーレがまた絶品でしたよね! まず娘役群舞から始まるというのが素晴らしい。くらげちゃんが背中向けてて、振り向いて、ライト、拍手!ってできるのも最高でした。月縛りの音楽ってのはありがちだけれど、童謡を持ってきたのがまたいい。かりにも日本物ですからね! くらげちゃんのスカートさばきの美しさ、翻る裾が描く美しい弧に見惚れました。
 デュエットダンスはアイスダンスみたいなアクロバティックなリフトもあって、素敵でした。ただ装置が置かれたままでちょっと狭そうだったかなー。ホリゾントだけの大きな舞台で踊らせてみたいふたりでした。
 男役が出てきてもくらげちゃんがしばらく残っていたのもよかったです。で、男役群舞もカッコいい。からの、ちなつ、ありちゃん、おだちんが残るのも素敵。さらに、からのちなつのソロが長くてセクシーで照明も粋で、絶品でした。手の使い方が色っぽくていい! あえてバックライトにしてシルエットを見せてキメ!みたいなのもイイ!! すごいなあ、愛されてるなあ、スタッフにこう作りたいと思わせられるスターさんになったんだなあ、おかえりちなつ!と改めて感動しました。
 初日カテコのご挨拶もそれはそれはりっぱで的確でチャーミングで、素晴らしかったです。
 芝居はどんどん深まってなめらかになって、もっとぐっと緩急ついておもしろくなっていくんだろうなあ。東京で観る予定がなくて残念です。盤石の月組、名古屋チームも楽しみです!




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祝・こっとん/ことなこ大劇場お披露目!『眩耀の谷/Ray』初日雑感

2020年02月09日 | 観劇記/タイトルか行
 プレお披露目初日雑感はこちら
 こう見えて(どう見えて?)私は実はこっちゃん大好きひっとんめちゃめちゃ大好き、愛ちゃんも好きであかちゃんも好き、俺たちのはること俺たちのくらっちと俺のかりんたん(オイ)が大々好きなので、今めっちゃ星組がアツいわけです。というわけで山なすお仕事もむりくりがんばって片付けて、さくっと遠征して参りました。ところで公式ではことなこが定着しつつあるようですが、やはりこっとんと呼びたい派です(笑)。この自然発生的にできたカップル愛称はイイと思うんですよー。
 さて今回は初日、2月7日15時だけの観劇です。記憶の怪しいところや間違いなんかが多いかもしれません。例によって完全ネタバレ、かついつにも増してご覧になっていないとわかりづらい書きようになっているかと思います。どうぞみなさま大劇場にお越しの上、お読みいただければと思います。一言で言うと、てか全然一言じゃないけど、なんか『阿弖流為』と『太王四神記』と『MESSIAH』と『邪馬台国の風』のデジャブ感がいろいろハンパなくてラストは『天河』だった気もしましたが、総じて私は悪くないとは思いました。毎度偉そうな言い方で申し訳ありませんが。ただ「だったらさあ…」とか「ところでさあ…」とか、毎度のごとく思うところもまたあったので、それを語らせていただきたく思います。

 私にとってまず初日の何がいいって、開演アナウンスのトップスターの名乗りになんの躊躇もなく拍手ができるところです。ましてや本公演トップ就任お披露目、いい音させて叩いて参りました。
 昨今は毎回、主演スターの名乗りに拍手する流れになっているようですが、私は古のヅカオタなので、初日と新公と千秋楽にしか名乗りには拍手しません。アナウンスのラスト、指揮者の先生の紹介と「開演いたします」のあとで、出演する生徒や先生方、スタッフさん全員に想いを込めて拍手します。一度ですませたい億劫さだと言われてもいい。ですがかつて私が駆け出しのファンだったころ、この拍手の様式美を知って私はいたく感動したのでした。だから私は今のなんでも拍手する風潮には迎合しません。したい人がするのをむりやり止めたりはしません、ただ心の中で「素人が!」と罵っているというだけのことです。これはニワカいじめなんかではない、と私は考えているのでした。
 それはともかく、開演アナウンスのこっちゃんの名乗りに続く、「作・演出・振付/謝珠栄」ってのがなかなかに新鮮で、ハッとなりました。たいていは「作・演出」だけですからね。
 そう、謝先生は主に柴田作品の演出なんかを手がけていて、また私は外部での作品もいくつか観ていますが、確かに特徴的な演出法があって、そして私はわりとそれが好きで買っています。ただ、ゼロからストーリーを作る脚本となるとどうだろう…と、心配してはいました。「歌劇」なんかを読んでも設定以上のものが見えてこず、「お話」があるんだろうな!?とさらに不安が増すばかりでした。ただまあショルダータイトルが「幻想歌舞録」でもあることだし、紀元前中国が舞台の歴史ファンタジーだということで、ぼんやりしたお伽話めいたストーリーの舞踊劇、といった体の、ショーに毛が生えた程度のものでもまあいいか…くらいな気持ちで臨みました。
 実際、序盤はダンスというか舞踊が多く、キャラはなかなか出揃わないし話が始まらない印象で、でも中国舞踊とか剣舞とかはなかなか目新しいので観ていて楽しく、まあこれで尺を取ってこのあとぬるいストーリーが展開されるのだとしても、まあそれはそれでもいいのかな…とか見守っていました。
 なんせ主人公の丹礼真が、「うちの王様はすごいんだぞ、隣の汶族と戦って勝ったんだぞ、ボクはこれから汶族の暮らす亜里に行って、汶族の人々に周の宗教や文化や法律を教えてお友達になるんだがんばるぞワーイ!」ってなテンションの、希望にあふれてキラキラした青年というかほとんど少年で、さらにそこから「でもまだ反抗するつもりの一部の人が隠れている谷があるんだって、それを探せって尊敬する将軍に命じられちゃったよボクがんばる!」みたいになるので、まあこういう世界観、人生観、心情やリアリティのあり方でいく物語なのね…と思うじゃないですか。
 でも、実は事態はけっこうヘビーであることが語られていきます。そりゃそうだ、戦勝国が占領した弱小国を教化するといえば聞こえはいいけれど、それはある種の侵略であり、汶族側からしたら民族のアイデンティティの危機なのですから。言葉も文字も違うかもしれない、少なくとも信じる神が違う、それを強い方になびけ従えというのはかなりの暴力です。
 しかしこれが、確か台湾にルーツがあるのかな?な謝先生が想いや思想を込めて作品に仕立てているのはわかるのだけれど、汶族のコスチュームがちょっとアイヌを思わせるもので、となると日本は、というかヤマトは、つまり我々は、この作品で言えば周国側になるんですよね。イヤ決して目を逸らしてはいけない事実なんだけれど、昔の罪を詰られているようでもあり、居心地が悪い思いをしないでもないです。
 さらにヒロインの瞳花が、汶族の王族の娘であるというのはまあよくある設定ながら、かつて周に囚われ、礼真が尊敬する管武将軍の妾にされ子まで産まされ、そこから命からがら逃げ戻った途中に失明したというヘビーな過去の持ち主とされているのです。そりゃ脳内お花畑の少年の方の基準でお話を進めるわけにはいきません。
 もちろんここで礼真が真実を知り大人になり自分の生き方を考え正しい新たな道を選んでいく…のが眼目の物語ではあるのですが、しかしここで素朴な疑問なんだけれどこっちゃんってバリバリの御曹司で今まさに戴冠するバリバリの路線スターで、だから実はこんな貴種流離譚の主人公像にハマらなくないですか? 周の一介の大夫が実は汶族の王の末裔!ってのがこっちゃんには似合わないんですよ。だって最初から今までずっと王子で王になる人だってわかってて、今ついに王になったスターなんだもん。だからって苦労していないということはないし、謝先生が苦悩する人物像をこっちゃんに当てたかったという意図はわかるけれど、でも実はこの設定の主人公像じゃないよな、とは私は思ったのでした。
 てか貴種流離譚って物語のネタとしてもはやマジで古くて興冷めしないかなー。結局は血筋かよ、って、虚しいですよね。そこに教育とか才能とか伝わるものが何もないなら血なんか本当に意味なんかないわけでさ。
 ただ、汶族の人々始め、それは『メサイア』なんかでもそうだったけれど、みんながまとまって立ち上がるときに中心人物が必要だ、ってのは悲しいかなままあって、それはそうやって誰かにすがりつかないでは立ち上がれない人間の弱さを表しているもので本当は克服しなければいけないものなんだけれど、とかく人はリーダーシップとか力量とかで中心人物になれる人か、でなければ王とか王の息子とか、要するに昔からみんなを統べまとめてくれていた人とその子孫についつい頼りがちなんですよね。だからこっちゃん礼真がそうして祭り上げられる流れを描くというなら、私だったら、真の王子はたとえばまいける百央だった、ってことにするけどなー。母から譲り受けた先祖伝来の…みたいな、何か持っていましたが(席が遠くてよく見えませんでした)、それもたまたま百央から預かっていたものにするし、子守歌も百央が母から聴いて歌っていたものを聞き覚えたことにする。百王は部下設定だったけれど幼なじみ設定とかにしてさ。つまり礼真は王族でもなんでもないただの周の一平民なんだけれど、汶族のため正義のために立ち上がりたいと思っているし、彼らが汶族の王としての礼真を望むなら喜んで嘘も吐こう、今はいない百央の代わりを務めてみんなを導き束ねみんなとともに戦おう…とする方が、よりドラマチックだったのではないかしらん、と思ったのです。
 のちにいつ本当のことを告げようか悩む…みたいなのもあってもいいかも。そこに瞳花の、「何がまことで何が偽りかは、人の心次第」みたいな台詞が効いてくると、またおもしろかったのではないかしらん?
 ただそれにしても、そもそもこっちゃんでやるなら、最初から最後まで王族の人の、別の苦悩の別の物語を作る方が合っていたのでは?というのは、あるのです。
 一方で瞳花の過去も、どうにも重すぎないでしょうか。たとえば汶族の王女にはあんるちゃんが扮して、あんるちゃんに敵の妾となり子を産まされた過去を背負わせ、ひっとんはその献身的な侍女アルマ役、としてもよかったのではないでしょうか…イヤ別にヒーローとくっつくはずのヒロインは手つかずの処女でないといかん!とか言う気はまったくないんだけれど、宝塚歌劇ではあまり見ないヒロイン像にさすがにちょっと驚いてしまったのですよ。子持ちのヒロイン自体はそんなには珍しくないんですけれどね。私は実はいろいろ時空が歪んでいて、ひっとんは柚長と同一人物で再会したがってる息子ってまさか実はこっちゃんのこと?とか、一瞬いろいろ考えちゃいました。そして結局、息子の家宝は話に出るだけで登場しないまま殺されてしまうので、ならこのエピソード要る?という気もちょっとしてしまったのです。
 ただ、瞳花が、管武将軍のことをなんとも言っていなくて、ただ息子の命だけを心配し会いたがっているのは、ちょっといいなと思いました。管武にあまりに恨みを抱いているようだとそれはそれで重いし、かといって沿うているうちに情が湧きました、みたいなことを言われても引きそうです。イヤ実際にはそういうことはままあることだと思うんだけどさ(そして愛ちゃんは意外に?ひっとんを大事にしてくれそうである…(笑))。でもノーコメントなんですよね、それがいい。ぶっちゃけ好きでも嫌いでもないしすぎたことだし忘れたいし無視、というのはレイプ相手への対処として正しい気もします。男は異民族の王女を妾にして孕ませて征服した気でいるのかもしれませんが、女にとってそんな男など何ほどのことはなく、忘れることもできる程度のものなのです。奪われたものも失われたものも何もない、と嘯いてみせる、それが女の復讐です。てかここの薄い本を早く…! 私は「あんな女に子まで産ませて! キーッ!!」ってなってる石女の正妻の役をやりたいです(笑)。もとは周王にあてがわれた貴族のお嬢さんなの。妄想広がるわー…
 話戻して、なので瞳花が、そんな屈辱的な形で産まされた息子に対して、まったく嫌悪を感じていず、ただ母親として子に愛情を注ぎ慈しみ心配している様子なのが、まっとうで健やかでいいなと感動したのでした。レイプで生まれた子でも子に罪はない、男への恨み辛みを子供に重ねるようなことをしないこの女性の強さ美しさは、際立っていると私は胸打たれました。礼真が自分の母が自分を慈しんでくれたことに重ねて、瞳花に過剰に同情したり哀れんだり、また傷物のように扱わないのもとてもよかったです。ただこのあたりも、宝塚歌劇では普通あまり描かれない部分だよなと変にどぎまぎしてしまいました。あまりにデリケートだから、というのともまた違うと思うのだけれど…ロマンチック・ラブ・イデオロギーに沿いにくい案件だからでしょうか。
 そういう、あまり普通でない設定や展開もあって、「ところでこの話どう転ぶの? どうオチるの?」という興味で舞台を集中して観られたのはおもしろかったです。オチが想像つかないことって、なかなかないんですよね。こう収まると美しい話だよね、とかこうなるべきな流れの話なんだけど、などと簡単に読めないのがなかなか新鮮でした。
 ラストで、礼真と瞳花が結ばれて娘(してやられました!)も生まれていてあっさりハッピーエンド、というのがまたバッサリ潔くてよかったなー、と感動しました。他の男の子を産んだことのある女を、そんなことで躊躇することなく娶った礼真の、本当ならばごくあたりまえの、けれどなんと大きな、寛容ななどと言わなければならないのが悔しい、そのあたたかさ、愛の大きさをほとんど無頓着に描いてのけたのに、私は感動しました。あざやかで、おもしろい、いいラストシーンだったなあぁ…
 そしてそこに至る展開がまたよかった。逃げよう、戦うのはやめよう、命あっての物種だ、新たな地で新たな谷を見つければいいだけのことだ…という選択は、正しい。不戦主義こそ勝利です。それを卑怯だとか女々しいとか弱腰だとかに見せないこっちゃんが、いい。というかその前にちゃんと牢獄の場面で礼真は不本意ではあるものの戦っていて、ちゃんと強いところをちゃんと見せている。これが効いていますよね。戦えば勝負にはなるだろう、だが戦力、物量で必ず負ける。汶族はこれまでもかかる火の粉を払う意味で戦ってきたのだけれど、戦いに戦いで返しても戦いは終わらないのです。戦いは新たな戦いを生むだけ、とアイーダも歌っていました。だから撤退する。玉砕なんて下の下の選択です。生きていたら勝ちなのです。戦わず逃げることは恥でもなんでもないし、敗北ですらないのです。
 だから私だったら谷の黄金は本物にします。そんなもの要らない、周が欲しがるならくれてやる、そんなものより大事なのは人だ、命だ、という流れにします。
 そしてここでなんなら「歌」というモチーフを出してもよかったと思います。こっちゃんが歌上手なのは世界の常識なのですから、そこにかけるのです。母親の子守歌が、実は汶族の王族の娘に伝わるものだった…という設定もあるじゃないですか、もう一押しです。
 歌は文化です、言葉です、心です。それは人とともに持ち出せる。けれど命ながらえないと奪われ失われ途絶えてしまうものなのです。でもそうしたものにこそ民族のアイデンティティは宿るのです。そこが真髄、スピリットなのです。
 谷はただの土地です、黄金はただの物です。そんなものは捨てていい、敵にくれてやればいい。大事なのは命です。新たな土地に逃げ延びて、そこで暮らせばそこが彼らの谷になり新たな国になるのです。彼らには良い薬を作る技がある。それも生きていなければつなげない技術です。そういう技術、歌、文化、心を守りつなぐことこそが大事なのです。そのために死なない、逃げる、支配されない、それは敗北ではなく勝利です。この選択をできる王は、リーダーは、強い。
 そして行った先に先住していた民がいたら、きっと汶族は彼らとは戦わないでしょう、共存することでしょう。互いの歌を学び技術を学び、番を作り血を混ぜ合わせ融和していくでしょう。それがあらまほしき世界の姿だと思うのです。そういうメッセージを、今の時代に上演するからこそ、乗せてもよかった。戦争放棄を謳う憲法を持つ国の、今の、新作ですしね。
 でもやはり、バリバリの御曹司・こっちゃんの物語ではないかなあ。ただ本人は優等生ではなかった認識のようなので、やはり「実は王子だった」とかより、一平民が仲間のために王を騙りその後王になる話、の方が似つかわしかったかもしれません。

 あとは、蛇足かもしれないけれど、空っぽの谷に到達して、黄金に浮かれ騒ぐ部下たちを尻目に、「負けたよ礼真、これからも遠く高く飛び、歌い続けていくがいい…」とかひとりごちちゃう愛ちゃん管武、なんてのも見たかったです。わりとその他けっこうやりっぱなので(笑)。
 まあ史実としてはこのあと周はゆっくり滅んでいくのかかな? そして作品自体は、組子たちがこのあとガンガン深めていくのでしょう。グループ芝居もまだまだやりようがあるように見えましたからね。次に観るのが楽しみです!

 というわけでこっちゃん、トップスター就任、改めておめでとうございました。なんでもできる人ですし、この先も役や作品に恵まれることを祈っています。『エル・アルコン』『ロミジュリ』については…まあいいや。私はこういうタイプの再演をあまり買っていないので。ともあれ礼真を意外に嫌味なくまたあまりアホの子っぽくならずにやれているのも、こっちゃんの上手さあったればこそと思っています。さらなる飛躍に期待しています!
 ひっとん、トップ娘役就任おめでとう! これまたなんでもできる娘役さんだと思っています。これからふたりでどんなカップルを、愛の形を見せてくれるのかなー。楽しみです! 愛ちゃん、2番手就任おめでとうございます! こっちゃんとはこれまた敵役でも親友役でも上司役でもなんでもできる組み合わせになると思うし、押し出しの良さ、スマートさ、色っぽさとヅカオタっぷりを生かして、さらに躍進していただきたいです。
 せおっちの「謎の男」は言うなれば『エルハポン』のアレハンドロさんなんだけれど、飄々とした感じや得体の知れなさ、浮き世離れした感じを絶妙に演じていて感心しました。笑いも取れるし、ホント上手い。盤石の3番手、これからも活躍していってほしいです。
 そしてあかちゃんが来て、お芝居ではPちゃんとニコイチで新鮮で、なかなかいい組み合わせだなと思いました。声もいいし歌えるし、ますますの活躍に期待しています。
 こっちゃんにプンスカしてるだけのかりんちゃんはどうしても一本調子に見えちゃうので、この先がんばれ! てか台詞がほぼないのに美しいたたずまいで目を惹く朝水りょう、怖い。あとあまとくんが垢抜けてきましたねー、役どころとしてはちょっと似通ってきちゃっているのがやや心配ではあります。
 みっきぃとまいけるもいい仕事しているし(てか慶梁って『黒い瞳』ベロボロードフさんまんまですけど謝先生!(笑) しかも愛ちゃんはあっきーかなこと顔採用だったけどこっちゃんは実力派上級生を並べるという…)、デジャブ感あるけど悪いはるこもいいし(しかし中国ものだから巫女を「みこ」でなく「ふじょ」と読ませたいのはわかるがしかし耳で聞いて理解するのはつらいよ…観客の教養に期待しすぎず、全体にもう少し簡易な言葉を選んだ方がよくなかったか?)、ほのかももっと悪く見せていくとよりおもしろいのではないかしらん(しかしみつる、妻がこりらで神官がはるこで寵姫がほのかとはやるな!?!?)水乃ちゃんは、こういう起用でいくというならそれもまたよし。そしてくらっちね! 語り部役ってとても難しいものだと思うんだけれど、さすが絶妙でしたよね! てか『TRAFALGAR』のれーれデジャブにうっかり泣きました…


 ショーは、いつもの中村Bショーでした。ホント雪組とかでさんざん観てきたヤツ。でもフィナーレのワンモアタイム!感が楽しかったのでよかったです。
 場面としては愛ちゃんセンターのスーツにハットの場面が好き。あとかりんたんが銀橋を落ちずに渡れたので百点です(甘い…)。マメちゃんがより艶やかになりルリハナちゃんが可愛くてウハウハでした。パレードは新トップトリオが白いお衣装で大羽根みっつ並び、壮観でした。こうでなくちゃね!
 初日前のランチは愛ちゃん会のお友達たちの集いにまぜていただきました。スチールが二枚出たことにはしゃぎプログラムの位置にはしゃぎでも羽根なんてとてもとても、この目で見るまで信じない、みたいに言っていたのがわかりみがすぎました。よかったね! お友達たちが幸せで私も幸せです。
 良き一日になりました。大劇場新公も拝見予定なので、楽しみです!




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『メアリ・スチュアート』

2020年02月08日 | 観劇記/タイトルま行
 世田谷パブリックシアター、2020年2月5日18時半。

 16世紀末、政変により国を追われ、遠縁にあたるイングランド女王エリザベス(シルビア・グラブ)のもとに身を寄せたスコットランド女王メアリ(長谷川京子)。だがエリザベスはイングランドの正当な王位継承権を持つメアリの存在を恐れ、彼女を19年の長きにわたり幽閉し続けていた。その間、ふたりの女王は決して顔を合わせることはなかった。今、エリザベスの暗殺計画に関わったのではないかという嫌疑がメアリにかけられ、裁判の結果、彼女に死刑判決が下される。だがエリザベスはその処刑を決行するか否か心乱れ…
 作/フリードリヒ・シラー、上演台本/スティーブン・スペンダー、翻訳/安西徹雄、演出/森新太郎、美術/堀尾幸男、照明/佐藤哲。シラーが1800年に書き下ろした戯曲をイギリスの詩人が1980年に上演台本にした作品。全2幕。

 以前観たものはこちら、2日前に観たものはこちら。そしてこちらはまた全然違う作品でした。けれど赤坂同様、美術と照明が素晴らしかったです。
 舞台はがらんどうです。三か所に地下への出入り口が切ってあり、役者の出ハケはほぼここからです。舞台には客席にせり出す出ベソ状の花道があって、その先にも出入り口がひとつ。あとはセットも装置も何もなし。牢獄の場面でメアリの長櫃が、宮廷の場面でエリザベスの玉座が、猟園の場面で大きな倒木が現れますが、それだけ。終演後のポストトークで語られていましたが、私は天井からのスポットライトが印象的だなと思っていたのですが、人物を浮き立たせるために真横からのライトが多用されていたそうで、役者はまぶしかったり相手が全然見えなかったりでものすごく大変だったそうです。確かにそれ以外舞台はほとんど暗かった…でも客席から見ると本当にドラマチックで、素晴らしい効果がありました。その中で台詞と演技のみでドラマは十分に立ち上がり、他になんの飾りも要らないのでした。そしてそれを見事にやってのける役者陣たちだったのでした。

 客席に食い込んだ出入り口から男が現れ、その影が舞台に大きく伸びて、物語は始まります。男はメアリの長櫃から手紙を見つけ出し、彼女がエリザベス暗殺計画に関与した証拠だと言う。女が現れて抗弁する。鷲尾真知子のハンナ・ケネディです。そしてハセキョーのメアリが、喪服にも見える黒いドレスに十字架ひとつ下げて、髪も結わず、ヴェールを被ったままで現れます。台詞がちょっと硬いかな? 舞台は8年ぶりだというしな?と思いましたがどうしてどうして、その後の場面では一転艶やかで鮮やかで、ここは牢獄なのだし硬くて当然かと思わされました。そして男性が出演する舞台ではメアリは美女である必要があると思うので、この起用はなかなかに正解だったと思いました。
 そう、男がいると女はより女になります。女ふたりの芝居ではただの人間だったのにね。そしてケネディはいてもナニーはいず、エリザベスの周りには男の廷臣ばかりが仕えます。でもケネディもまた違う女の顔を見せます。彼女はメアリを慰める体で、乳母としての自分の理想の姫君像をメアリに押しつけるようにも取れる台詞を吐きました。メアリの厳しい境遇はこうした形でも描かれます。
 次の場面になると長櫃がどんでん返しで玉座に替わり、舞台はまぶしいほどの光に照らされて、その中を白と金のドレスに身を包み、長い裳を引いて小姓ふたりに待たせたエリザベスが悠々と現れます。顔は白塗り。異様ですが当時の流行りだったんですよね?
 光が抑えられまた暗さが戻ると、幾何学的な美しさで居並ぶ廷臣たちの姿が浮かび上がる。その非現実感が一転して、彼らは生々しい心情を吐露し出します。誰も忠臣などではなく身勝手で卑怯で姑息な野心家で、真に国のこともエリザベスのことも案じていないようなのがすぐにわかります。この中でエリザベスは彼らを利用し国民の意を汲み愛されようと努め外国と謀り、生き抜いてきたのです。エリザベスもまた厳しい境遇にいることがこうして描かれるのでした。凜々しく強く、愚かで哀れなシルビア・グラブが素晴らしい。ものすごい舞台です、唸るしかありません。
 女ふたり芝居と違って、こちらの舞台では男優たちにも大量の台詞があり物語におけるポジションがありドラマがあります。声はもちろん背格好もみんなちゃんと違う、けれどみんな揃って上手い役者たちが配されて、どのおじさんもみんな同じに見えて混乱するなんてことがないのが素晴らしい。フランス大使(星智也)の声の良さと押し出しの良さが醸し出す外国人感も素晴らしければ、新旧イケメン対決みたいなレスター(吉田栄作)とモーティマー(三浦涼介)も素晴らしい。あと山崎一ってホント何やっても上手い、いい、素晴らしすぎる、信頼しかない!
 1幕ラストはエリザベスがレスターを突き飛ばして寝かせ、ドレスを手繰って跨がるところで終わります。
 ふたり芝居版ではエリザベスが自分が「処女」であることを誇る台詞が何度もあったのですが、これはもちろん未通を意味しているのではなくて、単に未婚であると言っているのですね。それは結婚などしていない、夫など持っていない、男に隷属などしていない、独立し自律した誇り高き女だという宣言です。どんなに美しい、色っぽいと褒めそやされていようと、何度も結婚したメアリなど男に媚びへつらい振り回されている売女にすぎない、と言ってのけているのです。エリザベスは女王で、権力を持ち、未通女の処女ではないので、男とやりたきゃやるのです。まさしく圧巻でした。男優がいるとこういう場面も作れるのですねえ。

 2幕冒頭で、史実にはなかったふたりの女王の出会いが描かれ、決裂して終わります。さもありなん。ふたりとも誇り高く計算高く、しかし愚かで不器用なのです。そこで私はまた、この作品は何故このタイトルなんだろう? 何故メアリだけが主人公で、エリザベスはそうではないとされているのだろう?と思いました。
 ふたり芝居版で裁判場面が白眉だったのと同じように、シラー版ではラストの告解場面がよかったなと感じました。我々異教徒にとっては最もわかりにくいことではありますが、彼らにとってはとても重要なことなのでしょう。けれど私はここでメアリは神父に嘘をついたように思いました。つまりエリザベス暗殺計画に関与していないと言ったことについて、です。彼女にとって自分のイングランド王位継承権は正当なものなのだから、その剥奪こそ不当でありその回復に努めたのは罪でもなんでもない…という考えだったのかもしれませんが、だとしたらそれこそ不遜で神をも恐れぬ傲慢さだなと思いました。そもそもカトリックとプロテスタントったって同じキリスト教なんだしそんなにこだわらなくてもいいじゃん、命を賭けるほどのことなの転向してすむならすりゃいいんじゃないの命あっての物種よ?と我々はつい考えるわけですが、近いからこその強い近親憎悪というものはあるのだろうし、神の裁きとか許されないと天国に行けないとかの思想はそれこそ彼らの骨にまで染みついていてそこからは逃れられないのだろうし、だからその意志を尊重する気になり見守ったのだけれど、でも最後の最後にこう自分と世界と神を欺いてこの世を去ろうというのかこの女は…と私はちょっと驚きあきれ、そしてだからこそのタイトルロールなのかな、と思ったりもしたのでした。でも本当のところはわかりません。キリスト教徒が観るとまた違うのかな…
 史実では真紅のドレスに身を包んで処刑に赴いたメアリだそうですが、ここでは白のドレスを着ていました。髪を上げているのはドレスアップのためではなく、処刑人の斧に首を差し出すためです。これはふたり芝居版でもそうでした。それまでメアリは髪を下ろしている。三度も結婚し子供までいる女でも、それは若さを表します。そしてエリザベスはずっと髪を結い上げている…
 死刑の執行命令書にサインしたあともエリザベスはずっと迷っていたのだけれど、忖度しなかった廷臣たちを責めてもクビにしても彼女は女王であることを辞められるわけではなく、悔やんでも呆然とたたずむことしかできない。彼女の形に国の、国民の、世界の重荷がのしかかる。そして舞台の灯りが落ちる…完。ものすごい舞台でした。
 メアリの告解のあたりから客席にすすり泣きが起きましたが、ここで泣くなど安易だと思いました。むしろエリザベスのために泣いてあげたい…そんなふうに私は感じました。

 そして改めて、メアリの正当性はまぶしすぎて、それをすべて望みすぎた彼女の強さは今の世にはやや浅ましく見えるようでもあり、主人公としてはなかなかに難しい存在のようにも感じました。でも彼女は確かに間違ってはいないのだし、その姿はたとえて言えば「女も人間だ。だから同等の権利をよこせ」としごくまっとうなことを言っているだけの今の世のフェミニストにも通じます。だからそれを「ほどほどにしておいたら?」と思わせるような空気の方がおかしいのであって、そういう演出をもっとしていってもおもしろいのかもなと思いました。
 彼女は決してイングランド王位を望んでいたわけではないのです。自分はスコットランドの女王なのだし、それで十分。エリザベスのことも認めている。けれど血筋から言って自分には王位継承権がある。たとえ万が一のことがあったとしても自分はそれを行使することなくむしろ自分の息子に継がせるがしかし、だからといって王位継承権がないものとされるのは不当だし我慢ができない。そんな彼女の訴えはいたって正論です。
 その主張は確かに正しいのだけれど、常に私生児と陰口を叩かれがちなエリザベスには認めるわけにはいかないものです。認めてしまうと自分の立場が、権利が、生命が脅かされるからです。
 この問題では彼女も明らかに被害者で、そもそも子供には親が選べないし親が正規の結婚をしていたかどうかも子供にはなんの責任もありません。まして何が正規の結婚かということは世の男どもが勝手に変えてきたことであって、女にはなんの権利も選択の自由もほぼありません。ヘンリー8世はまさしくそういう王様として歴史に名を残した人物です。
 でも王が死に王位を継いだ長男が死にさらに王位を継いだ長女が死に、エリザベスにお鉢が回ってきた。即位は、暗殺やら反乱やら、常に命の危険と背中合わせでそれでも生き延びてきた彼女にやっと与えられた「正当な」権利の行使です。彼女以上に正しい血筋の「男」は他にいなかった、ただメアリがいた。だから女ふたりの争いになったのです。でもそもそもが男の争いに巻き込まれた結果なのです。
 エリザベスの死後に王座を継いだのはメアリの息子ジェームズでしたが、彼にも私生児の噂はありました。女が結婚していたとして産んだのが夫の種であるかどうかは、DNA検査などないこの時代には女にしかわかりません。ときには女自身にすらわからないこともある。そんなあいまいな「血筋」などのために、世の男たちはそれこそ血道をあげて争うのでした。その愚かさ虚しさよ…
 なのでもっと、男など振りきり、シスターフッドに寄せた物語もあるのではないかしらん、と私は夢想します。メアリは自分の死が怖くなかったはずはない。でも仕方ない、エリザベスのために死んであげるわ、それが私の愛であり呪いよ…とメアリが嘯くような物語は、たとえばないのでしょうか。残された者はつらい。それは許しではなく呪いなのだけれど、愛でもある。それを胸に生きていくしかないエリザベス…そんな物語がありえるのではないかしらん?

 また違う配役や演出で上演があったら、是非ともまた観たい演目のひとつとなりました。


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『メアリー・ステュアート』

2020年02月08日 | 観劇記/タイトルま行
 赤坂RED/THEATER、2020年2月3日19時。

 男性遍歴とともに人生を変えられていったスコットランド女王のメアリー・ステュアート(霧矢大夢)と、男女問題が政治に影響するのを嫌い生涯独身を貫いたイングランド女王のエリザベス一世(保坂知寿)。同じ時代にひとつの島に生き、互いに意識し合いながらも、史実では顔を合わせることのなかったふたりが、夢の中で出会っていく。出会ったことのない相手との会話から、それまで表に出すことのなかった真実が見え始め…
 作/ダーチャ・マライーニ、翻訳/望月紀子、演出/大河内直子、美術/石原敬、照明/大島祐夫。1980年に執筆された戯曲で、日本初演は1990年。全2幕。

 以前観たものはこちら。おもしろかった記憶があったので、きりやんがやると聞いて嬉しくて、お友達に勇んでチケットを頼みました。作品の内容自体は全然覚えていなくて、尺もだいぶ違ったようなのでどちらかはだいぶ改変されていたのかもしれませんが、とにかくとてもおもしろく観ました。
 開場すると客席にはずっと街中の雑踏みたいな音が流れていて、薄明るく見える舞台には甲冑だのなんだのがごたごた置かれていて劇場の舞台袖か大道具の倉庫のよう。奥には大きな鏡があって、客席を暗く映し出しています。両端に小さな化粧台がそれぞれあり、やがて上手奥と下手奥から白いコットンのスカートに生成りのボディス姿の女性ふたりがそれぞれ出てきて、化粧台で髪を直したり鏡を覗き込んだりし始める。彼女たちは女優で、ここは芝居小屋の楽屋なのだろうか…?と思うまもなく、効果音と照明の変化で、突然物語は始まり、以後場面はくるくると変わっていきます。
 女優のひとりは、スコットランド女王メアリーと、イングランド女王エリザベスの侍女ナニーの二役を演じ、もうひとりがエリザベスと、メアリーの乳母ケネディの二役を演じるふたり芝居です。ふたりはそれぞれときどきは引っ込みますが基本的にはほぼずっと舞台にいて、どちらかの役になってほぼずっとふたりで芝居をします。すごい。
 ふたりは物語に出てくる男性廷臣の役もそれぞれ演じるというか、伝聞みたいな回想みたいな形で彼との会話をしてみせて、これも圧巻でした。舞台中央はほぼ空っぽでセットも装置も何もなく、小道具も主に椅子代わりになる木箱ひとつなのだけれど、そこが自在に宮廷になり牢獄になるのもまさしく演劇マジックで素晴らしかったです。

 きりやんはつい先日まで宝塚歌劇のトップスターだったイメージですし、保坂知寿はもうずっと以前から劇団四季のバリバリのスターだった印象があるので、そりゃきりやんの方が若くて保坂さんの方が年長かなとは思うのですが、これまた私のイメージで言うときりやんはメアリーには理知的すぎる気がして、対して保坂さんはちょっと少女っぽいところが上手くてリリカルさも多分にある気がして、キャラクターとしては逆の役を演じた方がいいようにも思えて、それがまた混乱しかつ舞台をなおさら深くおもしろく見せる効果があって、観ていてとてもスリリングで興奮し感動しました。思えば中谷美紀と神野三鈴にもそういうところがあった記憶があります。
 ふたりはメアリーとエリザベスだけでなくナニーとケネディも演じなくてはいけないので、むしろこれくらいニンが逆というかキャラクターの幅が広く見せられる方がいいのかもしれません。そしてきりやんのはつらつとした感じやワイルドさはある種のびのび生きたメアリーに通じるところがある気もしましたし、保坂さんの上手さはそりゃ老獪と言ってもいいエリザベスの寂しさ苦しさを演じさせると絶品なのでした。

 メアリーは夫も子供も持ったし恋もたくさんして楽しげで、でもそのどれにも翻弄されてしまっている。エリザベスはそういうふうに自分がコントロールできない状態になるのを嫌って、政治の餌として縁談話を利用することはあっても絶対に結婚はしないし男に気も許さない。性格が対照的だったのか、生き方が対照的だったのか…立場が逆ならどうなっていたかわからない、遠縁の女同士。女王だけれど時代は決して男女同権などではなく、明らかに男社会で、その中で戦い生き延びてきた女たちです。でも共闘はできない。互いの利害が反しすぎているし、宗教も違う。けれど愛がないではない…そんなふたりを力量の拮抗した、けれど持ち味の違う女優ふたりががっぷりよっつに組み丁々発止でやりあうおもしろさ、すごみを、堪能しまくれる舞台でした。
 史実では顔を合わせることのなかったふたりだそうですが、この作品ではメアリーがエリザベスに謁見する場面があり、ある種の和解や共感の優しい空気が一瞬立ち現れて、しかしそれは夢だったというオチとともに霧散するのでした。そのはかなさ、あっけなさ…
 タイトルロールはメアリーだし私はきりやんが好きなんだけれど、でもキャラクターとしてはというか人生観としては私は圧倒的にエリザベスに共感というか感情移入してしまうので、やはり前回にも思った「何故この作品はこのタイトルなんだろう?」ということをまた考えてしまいました。メアリーとしてはやはり裁判場面が白眉だったなと思うのですけれど、そしてそれはとても感動的な場面だったと思うのですけれど、でも作品そのものはメアリーに過剰に肩入れしていたり同情的に描いている様子はないように見えるんですよね。もちろん作品はメアリーの処刑で終わるので、これはあくまでメアリーの物語なのかもしれませんが、メアリーの死を語るケネディが締めて終わるのでエリザベス役者が締めているようにも見えるワケです。でも『ふたりの女王』とか『メアリーとエリザベス』みたいなタイトルでは、ない。不思議な作品だなあ…
 最後にふたりはまたそれぞれの化粧台の前に戻り、髪を下ろしたりアクセサリーをつけたりし始めます。芝居が終わり、化粧を落としているのでしょうか。それは人生という名の芝居だったのでしょうか。どちらが勝ったというのでしょうか、それは勝負などではなかったにせよ。そしてゆっくりと暗転…完。美しい。

 ところで私はずっとスミカのヘレン・ケラーと大空さんのアン・サリヴァンで『奇跡の人』を観たいと思っていたのだけれど、スミカのメアリーに大空さんのエリザベスなんてことができたら素晴らしすぎませんかね萌え的に!?とか思いついてたぎったりしちゃいました。

 折しも世田谷パブリックシアターではシラー版を上演するというので、そちらもチケットを手配しました。そちらも楽しみです!!!




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