日生劇場、2020年2月17日18時。
江戸の末期、天保年間。百姓隊の隊長(木場勝己)が語り出す。下総国清滝村の宿場には二軒の旅籠が向かい合っていて、二軒を仕切る鰤の十兵衛(辻萬長)は老境に入った自分の後継を決めるにあたり、三人の娘に対して父への孝養を問う。腹黒い長女・お文(樹里咲穂)と次女・お里(土井ケイト)は美辞麗句を並べ立てて父親に取り入ろうとするが、父を真心から愛する三女・お光(唯月ふうか)だけはおべっかの言葉が出てこず…
作/井上ひさし、作曲/宮川彬良、演出/藤田俊太郎。1974年初演、2005年には蜷川幸雄演出、宇崎竜童作曲で上演された、講談でおなじみの『天保水滸伝』にシェイクスピアの全37の戯曲をぶち込む「趣向」の舞台。全2幕。
冒頭とラストで歌われる「♪もしもシェイクスピアがいなかったら」がなかなかに印象的な、というか楽曲がどれもとてもいい、和製オリジナル・ミュージカルかくあれかしというミュージカルでした。でも、歌詞にせっかく洒落が多用されているから理解させたい、ということなのかもしれないけれど字幕を出すのはどうなんでしょう…私は気が散るんで嫌いなんですよね。聴き取れる歌唱をくれよ、とは思いました。
また、『リア王』『ロミジュリ』『ハムレット』『オセロー』そして『マクベス』や『夏の夜の夢』あたりの、有名どころはすぐわかりましたが、結局のところ水滸伝の方がピンとこないというか、侠客もの、無宿者ものって要するに今で言う「少年ジャンプ」とか「少年マガジン」とかのバトルもの、ヤンキーものなわけで、リアリティがないわけじゃないですか。だから登場人物の誰かに感情移入してストーリーを追うとか、共感してドラマに浸るとか、そういう親身な見方はできなくて、傍観者として展開を眺めるだけになってしまい、どこがどうシェイクスピアの作品かを探し見つける喜びはあるんだけれど、その「趣向」の楽しさの方が勝っちゃった舞台かなー、と個人的には思いました。萌えたり感動したり心揺さぶられたり…というのはなかった。でも長いけど、退屈はしませんでした。が、夢中になって集中して観たかといえば違う、というような感じです。
ただ、例によって出てくる役者がみんな達者なのでそれには感心しましたし、知らない役者さんも多かったので勉強になりました。かわいこちゃんたちがちゃんと上手かったのもよかったです。
ウラケンの登場がスターか!って派手さでしたが(笑)、王次って別にそんなに大きい役でもない気もしなくもなかったですね…あと次郎長との二役ってなんなんだ(笑)。
それからすると高橋一生の三世次はちゃんと主役かなという気がしましたが、私は実は『リチャード三世』をちゃんと観たことがなく(翻案のいのうえシェイクスピア『鉈切り丸』は観ています)、だいたいの設定や展開とラストの有名な台詞くらいしか知らないで観ていたので、『リチャード三世』を観てみたくなりました。
ちょっと話が脱線しますが、史実はまた別にして、リチャード三世ってすごく悪く描かれがちだと思うんですが、『ノートルダムの鐘』とか『オペラ座の怪人』とかと同様で、いわゆる不具者で悪役、みたいなキャラクターに対する根本的な捉え方が日本では違うものになるのではないかしらん、と私は常々考えていて、『リチャード三世』についてもそうなのかな、観てみていろいろ考察したいな、と思ったりしました。今回の三世次に関しても、また私が高橋一生が好きっていうのもあるにせよ、もちろん悪いヤツなんだけどなんかちょっとチャーミングにも見えるように演じられているものだから、その転落とか滅びを小気味よく感じて観る、みたいな視点にはなかなかなれないな、と感じちゃったんですよね。因果応報とか、天網恢々…みたいな爽快さ、正義が勝った達成感とかより、憐れみや、理不尽さへの怒りを感じてしまうわけです。作品としてはそれだと駄目な気もしなくもないのだけれど、どうなんでしょうね…?
とにもかくにも、シェイクスピアはノースペアだし井上ひさしもノースペア、というのには同感です。というかクリエイターはみんなそうあるべきでそれを目指していますよね。この舞台もまた、ノースペアなものでした。美術は松井るみ。舞台の奥にバンドメンバーがチラチラ見えるのも良き趣向でした。
ところで最後に全然ちがう脱線を。
『リチャード三世』と言えば私は菅野文『薔薇王の葬列』(秋田書店プリンセスコミックス既刊13巻)をかなり前から愛読していて、これはシェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』を原案としている少女漫画です。
最近の展開はややスローすぎて、連載が長くなるとたいていの作品はそうなりがちなんですがやや残念です。私はメガネ者なのでもちろん贔屓はバッキンガムですが、私の萌えパターンのひとつである最近の「両片想い」ターンも、ふたりがそれぞれ何をどう誤解し何に悩みけれど強がり素直になれないでいるのか、がわかりづらくしか描けていず、ずいぶんとモヤモヤしました。最新話で一応カタついてたからよかったけど(もはや「月刊プリンセス」を追っかける熱心さです)。
で、この漫画のリチャード三世は、身障者というよりは両性具有の、そういう意味で「普通ではない」とされているキャラクターなのですが、この最大の肝となる設定があまり生かされていないのが私は不満なんですよー。特にバッキンガムとのあれこれ、というかぶっちゃけセックスでは完全にただの女性になっちゃてる。何故?
このリチャードには乳房があるけれどペニスもある、ということなようなんですよね(実際には乳房の有無より、ペニスもあるけどヴァギナもある、とかの方が両性具有っぽいんでしょうけれど)。でも掲載誌が少女漫画誌だからか、ペニスが描かれないんですよ。上品な、一般商業誌のBL程度にも描かない。シルエットのトーン処理だかなんだかもよくわからない、ほぼほぼ空白としてしか描かれていないんですよ。これじゃ何があるんだかないんだかわからないので、描写として全然成立していないんですよね。目にしちゃった人が驚く描写はあっても、何に驚いているのかが明確にされていない。いや、「男でもあり女でもある」みたいな台詞はあるんですけれど、それって具体的にどういう意味なのかわかりづらいじゃないですか。何も描かれていない部分を見た村の男が「なんだこいつ?」と言っても、なんなら乳房はあるのにヴァギナがない、股間に何もない異形だから驚いているのか?とすら解釈できてしまう。でもそれじゃダメじゃないですか。せめてもっと台詞できちんと言わせればいいんじゃないのかなあ…少女漫画でも使用して大丈夫な言葉、単語はあると思うんですけど。男根とか陰茎とか?
このリチャードは、ちゃんとした、普通の(あえて言っています、ご理解ください)、男性じゃないから、悪魔なのであり、人間ですらなく、王座にもふさわしくない存在だ…とされてるし当人もそう考えている設定なのに、そこがあいまいでどーするよ、と思ってしまうのです。というかこの人の性自認は男性なんでしょうか。でもケイツビーといいヘンリーといいバッキンガムといい、男性と情愛を交わしているので、性指向は同性愛?
バッキンガムが困惑しつつもリチャードの男の部分も女の部分も愛する…みたいな描写は、そりゃ多少BLめくだろうけれど少女漫画として全然上手く描けるものだと思うんですけれど、そういうことは全然なくて、ただの男女のセックスみたいにしかなっていないのが、私にはとても不自然に思えてしまうのです。それと、バッキンガムはリチャードが妊娠できるか知りたがっているけれど、リチャードには卵巣や子宮があるの? 生理の描写もこれまでなかったけれど…現実の両性具有には卵巣も精巣もあるケースもあると聞きますが。というかリチャード本人は精巣、というか睾丸の有無を気にしないのかなあ? 王になりたがっているのに自分が子孫を、というか息子を持てるかどうかほとんど気にしていないというのは、この時代を考えるとこれまた不自然なことのように思えます。ただまあリチャードは、富や名声や権力を求めて王位を欲し、また自分の子孫に受け継がせていきたいと考えている…というよりは、まず自分が、普通の人間として認められるためには王になるしかない、と考えている人なので、未来には関心がない、ということなのかもしれません。
ところでペニスがあって勃起できるならアン・ネヴィルとセックスすることも可能なのではないのだろうか…性指向として、またバッキンガムへのフィデリティとしてしないということであれば、逆にアンとある種ユリユリしい友情を紡ぐことも可能なのではないかしらん…『紫子』みたいに、ね。てか私はアンが好きなんですよー、幸せにしてあげてほしいわー。怖くてこのあとの史実を調べられません。イヤみんな死んで終わるんでしょうけれど。
ともかく萌え萌えで読んではいるのでなおさら、「ダーク・ファンタジー」とか煽られている架空のものにナニ息巻いてんねん、と言われたらそれまでですがじゃあこの設定なんなのよ、と言いたくなり毎度やきもきしているのでした。
漫画は完結したら感想記事にすることにしているので、現時点では語る場所がなく、ここで吠えてみました。時代はちょっとズレるんでしょうが、ほのちゃんバウの『PRINCE OF ROSES』も楽しみにしています。ベスがお嫁に行く先ってことですよね、このあと登場してくるのかな? 楽しみすぎます!
江戸の末期、天保年間。百姓隊の隊長(木場勝己)が語り出す。下総国清滝村の宿場には二軒の旅籠が向かい合っていて、二軒を仕切る鰤の十兵衛(辻萬長)は老境に入った自分の後継を決めるにあたり、三人の娘に対して父への孝養を問う。腹黒い長女・お文(樹里咲穂)と次女・お里(土井ケイト)は美辞麗句を並べ立てて父親に取り入ろうとするが、父を真心から愛する三女・お光(唯月ふうか)だけはおべっかの言葉が出てこず…
作/井上ひさし、作曲/宮川彬良、演出/藤田俊太郎。1974年初演、2005年には蜷川幸雄演出、宇崎竜童作曲で上演された、講談でおなじみの『天保水滸伝』にシェイクスピアの全37の戯曲をぶち込む「趣向」の舞台。全2幕。
冒頭とラストで歌われる「♪もしもシェイクスピアがいなかったら」がなかなかに印象的な、というか楽曲がどれもとてもいい、和製オリジナル・ミュージカルかくあれかしというミュージカルでした。でも、歌詞にせっかく洒落が多用されているから理解させたい、ということなのかもしれないけれど字幕を出すのはどうなんでしょう…私は気が散るんで嫌いなんですよね。聴き取れる歌唱をくれよ、とは思いました。
また、『リア王』『ロミジュリ』『ハムレット』『オセロー』そして『マクベス』や『夏の夜の夢』あたりの、有名どころはすぐわかりましたが、結局のところ水滸伝の方がピンとこないというか、侠客もの、無宿者ものって要するに今で言う「少年ジャンプ」とか「少年マガジン」とかのバトルもの、ヤンキーものなわけで、リアリティがないわけじゃないですか。だから登場人物の誰かに感情移入してストーリーを追うとか、共感してドラマに浸るとか、そういう親身な見方はできなくて、傍観者として展開を眺めるだけになってしまい、どこがどうシェイクスピアの作品かを探し見つける喜びはあるんだけれど、その「趣向」の楽しさの方が勝っちゃった舞台かなー、と個人的には思いました。萌えたり感動したり心揺さぶられたり…というのはなかった。でも長いけど、退屈はしませんでした。が、夢中になって集中して観たかといえば違う、というような感じです。
ただ、例によって出てくる役者がみんな達者なのでそれには感心しましたし、知らない役者さんも多かったので勉強になりました。かわいこちゃんたちがちゃんと上手かったのもよかったです。
ウラケンの登場がスターか!って派手さでしたが(笑)、王次って別にそんなに大きい役でもない気もしなくもなかったですね…あと次郎長との二役ってなんなんだ(笑)。
それからすると高橋一生の三世次はちゃんと主役かなという気がしましたが、私は実は『リチャード三世』をちゃんと観たことがなく(翻案のいのうえシェイクスピア『鉈切り丸』は観ています)、だいたいの設定や展開とラストの有名な台詞くらいしか知らないで観ていたので、『リチャード三世』を観てみたくなりました。
ちょっと話が脱線しますが、史実はまた別にして、リチャード三世ってすごく悪く描かれがちだと思うんですが、『ノートルダムの鐘』とか『オペラ座の怪人』とかと同様で、いわゆる不具者で悪役、みたいなキャラクターに対する根本的な捉え方が日本では違うものになるのではないかしらん、と私は常々考えていて、『リチャード三世』についてもそうなのかな、観てみていろいろ考察したいな、と思ったりしました。今回の三世次に関しても、また私が高橋一生が好きっていうのもあるにせよ、もちろん悪いヤツなんだけどなんかちょっとチャーミングにも見えるように演じられているものだから、その転落とか滅びを小気味よく感じて観る、みたいな視点にはなかなかなれないな、と感じちゃったんですよね。因果応報とか、天網恢々…みたいな爽快さ、正義が勝った達成感とかより、憐れみや、理不尽さへの怒りを感じてしまうわけです。作品としてはそれだと駄目な気もしなくもないのだけれど、どうなんでしょうね…?
とにもかくにも、シェイクスピアはノースペアだし井上ひさしもノースペア、というのには同感です。というかクリエイターはみんなそうあるべきでそれを目指していますよね。この舞台もまた、ノースペアなものでした。美術は松井るみ。舞台の奥にバンドメンバーがチラチラ見えるのも良き趣向でした。
ところで最後に全然ちがう脱線を。
『リチャード三世』と言えば私は菅野文『薔薇王の葬列』(秋田書店プリンセスコミックス既刊13巻)をかなり前から愛読していて、これはシェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』を原案としている少女漫画です。
最近の展開はややスローすぎて、連載が長くなるとたいていの作品はそうなりがちなんですがやや残念です。私はメガネ者なのでもちろん贔屓はバッキンガムですが、私の萌えパターンのひとつである最近の「両片想い」ターンも、ふたりがそれぞれ何をどう誤解し何に悩みけれど強がり素直になれないでいるのか、がわかりづらくしか描けていず、ずいぶんとモヤモヤしました。最新話で一応カタついてたからよかったけど(もはや「月刊プリンセス」を追っかける熱心さです)。
で、この漫画のリチャード三世は、身障者というよりは両性具有の、そういう意味で「普通ではない」とされているキャラクターなのですが、この最大の肝となる設定があまり生かされていないのが私は不満なんですよー。特にバッキンガムとのあれこれ、というかぶっちゃけセックスでは完全にただの女性になっちゃてる。何故?
このリチャードには乳房があるけれどペニスもある、ということなようなんですよね(実際には乳房の有無より、ペニスもあるけどヴァギナもある、とかの方が両性具有っぽいんでしょうけれど)。でも掲載誌が少女漫画誌だからか、ペニスが描かれないんですよ。上品な、一般商業誌のBL程度にも描かない。シルエットのトーン処理だかなんだかもよくわからない、ほぼほぼ空白としてしか描かれていないんですよ。これじゃ何があるんだかないんだかわからないので、描写として全然成立していないんですよね。目にしちゃった人が驚く描写はあっても、何に驚いているのかが明確にされていない。いや、「男でもあり女でもある」みたいな台詞はあるんですけれど、それって具体的にどういう意味なのかわかりづらいじゃないですか。何も描かれていない部分を見た村の男が「なんだこいつ?」と言っても、なんなら乳房はあるのにヴァギナがない、股間に何もない異形だから驚いているのか?とすら解釈できてしまう。でもそれじゃダメじゃないですか。せめてもっと台詞できちんと言わせればいいんじゃないのかなあ…少女漫画でも使用して大丈夫な言葉、単語はあると思うんですけど。男根とか陰茎とか?
このリチャードは、ちゃんとした、普通の(あえて言っています、ご理解ください)、男性じゃないから、悪魔なのであり、人間ですらなく、王座にもふさわしくない存在だ…とされてるし当人もそう考えている設定なのに、そこがあいまいでどーするよ、と思ってしまうのです。というかこの人の性自認は男性なんでしょうか。でもケイツビーといいヘンリーといいバッキンガムといい、男性と情愛を交わしているので、性指向は同性愛?
バッキンガムが困惑しつつもリチャードの男の部分も女の部分も愛する…みたいな描写は、そりゃ多少BLめくだろうけれど少女漫画として全然上手く描けるものだと思うんですけれど、そういうことは全然なくて、ただの男女のセックスみたいにしかなっていないのが、私にはとても不自然に思えてしまうのです。それと、バッキンガムはリチャードが妊娠できるか知りたがっているけれど、リチャードには卵巣や子宮があるの? 生理の描写もこれまでなかったけれど…現実の両性具有には卵巣も精巣もあるケースもあると聞きますが。というかリチャード本人は精巣、というか睾丸の有無を気にしないのかなあ? 王になりたがっているのに自分が子孫を、というか息子を持てるかどうかほとんど気にしていないというのは、この時代を考えるとこれまた不自然なことのように思えます。ただまあリチャードは、富や名声や権力を求めて王位を欲し、また自分の子孫に受け継がせていきたいと考えている…というよりは、まず自分が、普通の人間として認められるためには王になるしかない、と考えている人なので、未来には関心がない、ということなのかもしれません。
ところでペニスがあって勃起できるならアン・ネヴィルとセックスすることも可能なのではないのだろうか…性指向として、またバッキンガムへのフィデリティとしてしないということであれば、逆にアンとある種ユリユリしい友情を紡ぐことも可能なのではないかしらん…『紫子』みたいに、ね。てか私はアンが好きなんですよー、幸せにしてあげてほしいわー。怖くてこのあとの史実を調べられません。イヤみんな死んで終わるんでしょうけれど。
ともかく萌え萌えで読んではいるのでなおさら、「ダーク・ファンタジー」とか煽られている架空のものにナニ息巻いてんねん、と言われたらそれまでですがじゃあこの設定なんなのよ、と言いたくなり毎度やきもきしているのでした。
漫画は完結したら感想記事にすることにしているので、現時点では語る場所がなく、ここで吠えてみました。時代はちょっとズレるんでしょうが、ほのちゃんバウの『PRINCE OF ROSES』も楽しみにしています。ベスがお嫁に行く先ってことですよね、このあと登場してくるのかな? 楽しみすぎます!