駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『メアリ・スチュアート』

2020年02月08日 | 観劇記/タイトルま行
 世田谷パブリックシアター、2020年2月5日18時半。

 16世紀末、政変により国を追われ、遠縁にあたるイングランド女王エリザベス(シルビア・グラブ)のもとに身を寄せたスコットランド女王メアリ(長谷川京子)。だがエリザベスはイングランドの正当な王位継承権を持つメアリの存在を恐れ、彼女を19年の長きにわたり幽閉し続けていた。その間、ふたりの女王は決して顔を合わせることはなかった。今、エリザベスの暗殺計画に関わったのではないかという嫌疑がメアリにかけられ、裁判の結果、彼女に死刑判決が下される。だがエリザベスはその処刑を決行するか否か心乱れ…
 作/フリードリヒ・シラー、上演台本/スティーブン・スペンダー、翻訳/安西徹雄、演出/森新太郎、美術/堀尾幸男、照明/佐藤哲。シラーが1800年に書き下ろした戯曲をイギリスの詩人が1980年に上演台本にした作品。全2幕。

 以前観たものはこちら、2日前に観たものはこちら。そしてこちらはまた全然違う作品でした。けれど赤坂同様、美術と照明が素晴らしかったです。
 舞台はがらんどうです。三か所に地下への出入り口が切ってあり、役者の出ハケはほぼここからです。舞台には客席にせり出す出ベソ状の花道があって、その先にも出入り口がひとつ。あとはセットも装置も何もなし。牢獄の場面でメアリの長櫃が、宮廷の場面でエリザベスの玉座が、猟園の場面で大きな倒木が現れますが、それだけ。終演後のポストトークで語られていましたが、私は天井からのスポットライトが印象的だなと思っていたのですが、人物を浮き立たせるために真横からのライトが多用されていたそうで、役者はまぶしかったり相手が全然見えなかったりでものすごく大変だったそうです。確かにそれ以外舞台はほとんど暗かった…でも客席から見ると本当にドラマチックで、素晴らしい効果がありました。その中で台詞と演技のみでドラマは十分に立ち上がり、他になんの飾りも要らないのでした。そしてそれを見事にやってのける役者陣たちだったのでした。

 客席に食い込んだ出入り口から男が現れ、その影が舞台に大きく伸びて、物語は始まります。男はメアリの長櫃から手紙を見つけ出し、彼女がエリザベス暗殺計画に関与した証拠だと言う。女が現れて抗弁する。鷲尾真知子のハンナ・ケネディです。そしてハセキョーのメアリが、喪服にも見える黒いドレスに十字架ひとつ下げて、髪も結わず、ヴェールを被ったままで現れます。台詞がちょっと硬いかな? 舞台は8年ぶりだというしな?と思いましたがどうしてどうして、その後の場面では一転艶やかで鮮やかで、ここは牢獄なのだし硬くて当然かと思わされました。そして男性が出演する舞台ではメアリは美女である必要があると思うので、この起用はなかなかに正解だったと思いました。
 そう、男がいると女はより女になります。女ふたりの芝居ではただの人間だったのにね。そしてケネディはいてもナニーはいず、エリザベスの周りには男の廷臣ばかりが仕えます。でもケネディもまた違う女の顔を見せます。彼女はメアリを慰める体で、乳母としての自分の理想の姫君像をメアリに押しつけるようにも取れる台詞を吐きました。メアリの厳しい境遇はこうした形でも描かれます。
 次の場面になると長櫃がどんでん返しで玉座に替わり、舞台はまぶしいほどの光に照らされて、その中を白と金のドレスに身を包み、長い裳を引いて小姓ふたりに待たせたエリザベスが悠々と現れます。顔は白塗り。異様ですが当時の流行りだったんですよね?
 光が抑えられまた暗さが戻ると、幾何学的な美しさで居並ぶ廷臣たちの姿が浮かび上がる。その非現実感が一転して、彼らは生々しい心情を吐露し出します。誰も忠臣などではなく身勝手で卑怯で姑息な野心家で、真に国のこともエリザベスのことも案じていないようなのがすぐにわかります。この中でエリザベスは彼らを利用し国民の意を汲み愛されようと努め外国と謀り、生き抜いてきたのです。エリザベスもまた厳しい境遇にいることがこうして描かれるのでした。凜々しく強く、愚かで哀れなシルビア・グラブが素晴らしい。ものすごい舞台です、唸るしかありません。
 女ふたり芝居と違って、こちらの舞台では男優たちにも大量の台詞があり物語におけるポジションがありドラマがあります。声はもちろん背格好もみんなちゃんと違う、けれどみんな揃って上手い役者たちが配されて、どのおじさんもみんな同じに見えて混乱するなんてことがないのが素晴らしい。フランス大使(星智也)の声の良さと押し出しの良さが醸し出す外国人感も素晴らしければ、新旧イケメン対決みたいなレスター(吉田栄作)とモーティマー(三浦涼介)も素晴らしい。あと山崎一ってホント何やっても上手い、いい、素晴らしすぎる、信頼しかない!
 1幕ラストはエリザベスがレスターを突き飛ばして寝かせ、ドレスを手繰って跨がるところで終わります。
 ふたり芝居版ではエリザベスが自分が「処女」であることを誇る台詞が何度もあったのですが、これはもちろん未通を意味しているのではなくて、単に未婚であると言っているのですね。それは結婚などしていない、夫など持っていない、男に隷属などしていない、独立し自律した誇り高き女だという宣言です。どんなに美しい、色っぽいと褒めそやされていようと、何度も結婚したメアリなど男に媚びへつらい振り回されている売女にすぎない、と言ってのけているのです。エリザベスは女王で、権力を持ち、未通女の処女ではないので、男とやりたきゃやるのです。まさしく圧巻でした。男優がいるとこういう場面も作れるのですねえ。

 2幕冒頭で、史実にはなかったふたりの女王の出会いが描かれ、決裂して終わります。さもありなん。ふたりとも誇り高く計算高く、しかし愚かで不器用なのです。そこで私はまた、この作品は何故このタイトルなんだろう? 何故メアリだけが主人公で、エリザベスはそうではないとされているのだろう?と思いました。
 ふたり芝居版で裁判場面が白眉だったのと同じように、シラー版ではラストの告解場面がよかったなと感じました。我々異教徒にとっては最もわかりにくいことではありますが、彼らにとってはとても重要なことなのでしょう。けれど私はここでメアリは神父に嘘をついたように思いました。つまりエリザベス暗殺計画に関与していないと言ったことについて、です。彼女にとって自分のイングランド王位継承権は正当なものなのだから、その剥奪こそ不当でありその回復に努めたのは罪でもなんでもない…という考えだったのかもしれませんが、だとしたらそれこそ不遜で神をも恐れぬ傲慢さだなと思いました。そもそもカトリックとプロテスタントったって同じキリスト教なんだしそんなにこだわらなくてもいいじゃん、命を賭けるほどのことなの転向してすむならすりゃいいんじゃないの命あっての物種よ?と我々はつい考えるわけですが、近いからこその強い近親憎悪というものはあるのだろうし、神の裁きとか許されないと天国に行けないとかの思想はそれこそ彼らの骨にまで染みついていてそこからは逃れられないのだろうし、だからその意志を尊重する気になり見守ったのだけれど、でも最後の最後にこう自分と世界と神を欺いてこの世を去ろうというのかこの女は…と私はちょっと驚きあきれ、そしてだからこそのタイトルロールなのかな、と思ったりもしたのでした。でも本当のところはわかりません。キリスト教徒が観るとまた違うのかな…
 史実では真紅のドレスに身を包んで処刑に赴いたメアリだそうですが、ここでは白のドレスを着ていました。髪を上げているのはドレスアップのためではなく、処刑人の斧に首を差し出すためです。これはふたり芝居版でもそうでした。それまでメアリは髪を下ろしている。三度も結婚し子供までいる女でも、それは若さを表します。そしてエリザベスはずっと髪を結い上げている…
 死刑の執行命令書にサインしたあともエリザベスはずっと迷っていたのだけれど、忖度しなかった廷臣たちを責めてもクビにしても彼女は女王であることを辞められるわけではなく、悔やんでも呆然とたたずむことしかできない。彼女の形に国の、国民の、世界の重荷がのしかかる。そして舞台の灯りが落ちる…完。ものすごい舞台でした。
 メアリの告解のあたりから客席にすすり泣きが起きましたが、ここで泣くなど安易だと思いました。むしろエリザベスのために泣いてあげたい…そんなふうに私は感じました。

 そして改めて、メアリの正当性はまぶしすぎて、それをすべて望みすぎた彼女の強さは今の世にはやや浅ましく見えるようでもあり、主人公としてはなかなかに難しい存在のようにも感じました。でも彼女は確かに間違ってはいないのだし、その姿はたとえて言えば「女も人間だ。だから同等の権利をよこせ」としごくまっとうなことを言っているだけの今の世のフェミニストにも通じます。だからそれを「ほどほどにしておいたら?」と思わせるような空気の方がおかしいのであって、そういう演出をもっとしていってもおもしろいのかもなと思いました。
 彼女は決してイングランド王位を望んでいたわけではないのです。自分はスコットランドの女王なのだし、それで十分。エリザベスのことも認めている。けれど血筋から言って自分には王位継承権がある。たとえ万が一のことがあったとしても自分はそれを行使することなくむしろ自分の息子に継がせるがしかし、だからといって王位継承権がないものとされるのは不当だし我慢ができない。そんな彼女の訴えはいたって正論です。
 その主張は確かに正しいのだけれど、常に私生児と陰口を叩かれがちなエリザベスには認めるわけにはいかないものです。認めてしまうと自分の立場が、権利が、生命が脅かされるからです。
 この問題では彼女も明らかに被害者で、そもそも子供には親が選べないし親が正規の結婚をしていたかどうかも子供にはなんの責任もありません。まして何が正規の結婚かということは世の男どもが勝手に変えてきたことであって、女にはなんの権利も選択の自由もほぼありません。ヘンリー8世はまさしくそういう王様として歴史に名を残した人物です。
 でも王が死に王位を継いだ長男が死にさらに王位を継いだ長女が死に、エリザベスにお鉢が回ってきた。即位は、暗殺やら反乱やら、常に命の危険と背中合わせでそれでも生き延びてきた彼女にやっと与えられた「正当な」権利の行使です。彼女以上に正しい血筋の「男」は他にいなかった、ただメアリがいた。だから女ふたりの争いになったのです。でもそもそもが男の争いに巻き込まれた結果なのです。
 エリザベスの死後に王座を継いだのはメアリの息子ジェームズでしたが、彼にも私生児の噂はありました。女が結婚していたとして産んだのが夫の種であるかどうかは、DNA検査などないこの時代には女にしかわかりません。ときには女自身にすらわからないこともある。そんなあいまいな「血筋」などのために、世の男たちはそれこそ血道をあげて争うのでした。その愚かさ虚しさよ…
 なのでもっと、男など振りきり、シスターフッドに寄せた物語もあるのではないかしらん、と私は夢想します。メアリは自分の死が怖くなかったはずはない。でも仕方ない、エリザベスのために死んであげるわ、それが私の愛であり呪いよ…とメアリが嘯くような物語は、たとえばないのでしょうか。残された者はつらい。それは許しではなく呪いなのだけれど、愛でもある。それを胸に生きていくしかないエリザベス…そんな物語がありえるのではないかしらん?

 また違う配役や演出で上演があったら、是非ともまた観たい演目のひとつとなりました。


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『メアリー・ステュアート』

2020年02月08日 | 観劇記/タイトルま行
 赤坂RED/THEATER、2020年2月3日19時。

 男性遍歴とともに人生を変えられていったスコットランド女王のメアリー・ステュアート(霧矢大夢)と、男女問題が政治に影響するのを嫌い生涯独身を貫いたイングランド女王のエリザベス一世(保坂知寿)。同じ時代にひとつの島に生き、互いに意識し合いながらも、史実では顔を合わせることのなかったふたりが、夢の中で出会っていく。出会ったことのない相手との会話から、それまで表に出すことのなかった真実が見え始め…
 作/ダーチャ・マライーニ、翻訳/望月紀子、演出/大河内直子、美術/石原敬、照明/大島祐夫。1980年に執筆された戯曲で、日本初演は1990年。全2幕。

 以前観たものはこちら。おもしろかった記憶があったので、きりやんがやると聞いて嬉しくて、お友達に勇んでチケットを頼みました。作品の内容自体は全然覚えていなくて、尺もだいぶ違ったようなのでどちらかはだいぶ改変されていたのかもしれませんが、とにかくとてもおもしろく観ました。
 開場すると客席にはずっと街中の雑踏みたいな音が流れていて、薄明るく見える舞台には甲冑だのなんだのがごたごた置かれていて劇場の舞台袖か大道具の倉庫のよう。奥には大きな鏡があって、客席を暗く映し出しています。両端に小さな化粧台がそれぞれあり、やがて上手奥と下手奥から白いコットンのスカートに生成りのボディス姿の女性ふたりがそれぞれ出てきて、化粧台で髪を直したり鏡を覗き込んだりし始める。彼女たちは女優で、ここは芝居小屋の楽屋なのだろうか…?と思うまもなく、効果音と照明の変化で、突然物語は始まり、以後場面はくるくると変わっていきます。
 女優のひとりは、スコットランド女王メアリーと、イングランド女王エリザベスの侍女ナニーの二役を演じ、もうひとりがエリザベスと、メアリーの乳母ケネディの二役を演じるふたり芝居です。ふたりはそれぞれときどきは引っ込みますが基本的にはほぼずっと舞台にいて、どちらかの役になってほぼずっとふたりで芝居をします。すごい。
 ふたりは物語に出てくる男性廷臣の役もそれぞれ演じるというか、伝聞みたいな回想みたいな形で彼との会話をしてみせて、これも圧巻でした。舞台中央はほぼ空っぽでセットも装置も何もなく、小道具も主に椅子代わりになる木箱ひとつなのだけれど、そこが自在に宮廷になり牢獄になるのもまさしく演劇マジックで素晴らしかったです。

 きりやんはつい先日まで宝塚歌劇のトップスターだったイメージですし、保坂知寿はもうずっと以前から劇団四季のバリバリのスターだった印象があるので、そりゃきりやんの方が若くて保坂さんの方が年長かなとは思うのですが、これまた私のイメージで言うときりやんはメアリーには理知的すぎる気がして、対して保坂さんはちょっと少女っぽいところが上手くてリリカルさも多分にある気がして、キャラクターとしては逆の役を演じた方がいいようにも思えて、それがまた混乱しかつ舞台をなおさら深くおもしろく見せる効果があって、観ていてとてもスリリングで興奮し感動しました。思えば中谷美紀と神野三鈴にもそういうところがあった記憶があります。
 ふたりはメアリーとエリザベスだけでなくナニーとケネディも演じなくてはいけないので、むしろこれくらいニンが逆というかキャラクターの幅が広く見せられる方がいいのかもしれません。そしてきりやんのはつらつとした感じやワイルドさはある種のびのび生きたメアリーに通じるところがある気もしましたし、保坂さんの上手さはそりゃ老獪と言ってもいいエリザベスの寂しさ苦しさを演じさせると絶品なのでした。

 メアリーは夫も子供も持ったし恋もたくさんして楽しげで、でもそのどれにも翻弄されてしまっている。エリザベスはそういうふうに自分がコントロールできない状態になるのを嫌って、政治の餌として縁談話を利用することはあっても絶対に結婚はしないし男に気も許さない。性格が対照的だったのか、生き方が対照的だったのか…立場が逆ならどうなっていたかわからない、遠縁の女同士。女王だけれど時代は決して男女同権などではなく、明らかに男社会で、その中で戦い生き延びてきた女たちです。でも共闘はできない。互いの利害が反しすぎているし、宗教も違う。けれど愛がないではない…そんなふたりを力量の拮抗した、けれど持ち味の違う女優ふたりががっぷりよっつに組み丁々発止でやりあうおもしろさ、すごみを、堪能しまくれる舞台でした。
 史実では顔を合わせることのなかったふたりだそうですが、この作品ではメアリーがエリザベスに謁見する場面があり、ある種の和解や共感の優しい空気が一瞬立ち現れて、しかしそれは夢だったというオチとともに霧散するのでした。そのはかなさ、あっけなさ…
 タイトルロールはメアリーだし私はきりやんが好きなんだけれど、でもキャラクターとしてはというか人生観としては私は圧倒的にエリザベスに共感というか感情移入してしまうので、やはり前回にも思った「何故この作品はこのタイトルなんだろう?」ということをまた考えてしまいました。メアリーとしてはやはり裁判場面が白眉だったなと思うのですけれど、そしてそれはとても感動的な場面だったと思うのですけれど、でも作品そのものはメアリーに過剰に肩入れしていたり同情的に描いている様子はないように見えるんですよね。もちろん作品はメアリーの処刑で終わるので、これはあくまでメアリーの物語なのかもしれませんが、メアリーの死を語るケネディが締めて終わるのでエリザベス役者が締めているようにも見えるワケです。でも『ふたりの女王』とか『メアリーとエリザベス』みたいなタイトルでは、ない。不思議な作品だなあ…
 最後にふたりはまたそれぞれの化粧台の前に戻り、髪を下ろしたりアクセサリーをつけたりし始めます。芝居が終わり、化粧を落としているのでしょうか。それは人生という名の芝居だったのでしょうか。どちらが勝ったというのでしょうか、それは勝負などではなかったにせよ。そしてゆっくりと暗転…完。美しい。

 ところで私はずっとスミカのヘレン・ケラーと大空さんのアン・サリヴァンで『奇跡の人』を観たいと思っていたのだけれど、スミカのメアリーに大空さんのエリザベスなんてことができたら素晴らしすぎませんかね萌え的に!?とか思いついてたぎったりしちゃいました。

 折しも世田谷パブリックシアターではシラー版を上演するというので、そちらもチケットを手配しました。そちらも楽しみです!!!




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