宝塚バウホール、2021年5月22日15時、23日11時半。
KAAT神奈川芸術劇場、6月12日11時。
魔術の都マジェイアにひとりの青年がたどり着く。青年の名はアダム(朝美絢)。魔術師・名人組合に入るため、言葉をしゃべる犬モプシー(縣千)と共にストレーン山脈を越えてはるばるやってきた彼は、街でジェイン(野々花ひまり)という娘と出会う。彼女は魔術師になることを密かに夢見ていたが、マジェイア市長兼マジシャンである父ロバート(久城あす)は兄のピーター(壮海はるま)ばかりを優遇していたのだ…
原作/ポール・ギャリコ、脚本・演出/木村信司、作曲・編曲/長谷川雅大、植田浩德、振付/百花沙里。1966年に発表されたファンタジー小説を原作にしたロマンス、全2幕。
キムシンはプログラムで「永年、ファンタジー作品は企画が通りませんでした」という言葉でコメントを始めていますが、私に言わせれば理由は明白で、舞台との相性が悪いからだと思います。ファンタジーと言ってもいろいろありますが、演劇、特にミュージカルが舞台に現出させるドリーム、舞台の魔法は、文学が描き出すそれとは似て非なるもので、「混ぜるなキケン」だと私は思う。この古い小説を私はタイトルしか知らず、あーさの帯付きで文庫が復刻発売されたので買って読んでみましたが、古風な訳文のせいもありますが要するに大人の童話といったタイプのファンタジーで、これはどんな形であれ舞台でやるのはなかなか難しいぞ、まして宝塚歌劇では…と私は心配したものでした。
宝塚歌劇は非現実的なまでに美しいスターたちが夢のような物語を織りなす舞台ですが、しかしファンはみんなスターが現実を生きる女性であることを知っているし、ファンもまた現実の生活をやりくりして劇場に来ている、現実の世界を生きる存在なのです。劇場も舞台も現実に存在するものなのであり、そして我々の現実に文学が、空想が描くような「魔法」は、ない。
そういう「魔法」を小説ではなく舞台で表現しようとするなら、結局はタネも仕掛けもあるトリック、ギミック、マジックに頼るしかないのです。この物語は、タネも仕掛けもある手品の技を競う手品師、魔術師たちの街に、「ありのままの魔術」しかできない、とのたまう青年が現れて、もしや禁断の、異端の、「ほんものの」魔法を使う、本物の魔法使いなのでは?と騒動が起きる…というようなお話です。でも、アダムがやった、卵の殻を割り、かき混ぜてメレンゲにしたものを、また元の卵に戻す「ありのままの魔術」は、現実の人間であるあーさが現実の舞台上でやってみせることはできません。だから舞台でのアレは、ボウルか何かに仕掛けがあるのでしょう。それは私たち観客にもそう想像できてしまう。そんな状態でアダムの魔法を信じたり夢見たり、できるわけがないじゃないですか。この舞台化はハナから無理ゲーなのです。寒すぎる、しんどすぎる、つらすぎる。この舞台に初見で私がノレなかったのは、私に童心がないから、ではないと思う。多くの観客も、きちんと明文化できなくとも、この作品に生じてしまう現実の薄皮の皮膜をうまく越えられなかったのではないかと察します。舞台の嘘と小説の嘘、舞台のドリームと小説のドリーム、舞台のファンタジーと小説のファンタジーは位相が違っていて、ねじれているのです。それは容易には、あるいは絶対に、乗り越えられないものなのではないでしょうか。
でも、ここだけがネックで、逆に言うとそこにだけ目をつぶれば、ちょっとシニカルでホラーでもあるような、けれどとても哲学的かつ普遍的な、そしてとてもいいことを訴えている、ハートフルで美しい作品なのだな…と、三回観てやっと私は得心したのですけれどね。ザッツ・キムシンだし、やりたかったこともとてもよくわかる、繊細で丁寧に誠実に作られたいい作品だな、と思いました。
あーさはその圧倒的な美貌とナチュラルな演技力を生かして、浮き世離れした、「ほんものの魔法使」かもしれない青年アダムを、それは見事にやってのけていました。
でも、MVPはあがた犬(あがたせんではなくあがたけん)ではなくひまりだと思う。先日までの主人公の子供時代のお役も素晴らしかったし、子役はもちろん大人っぽい女性の役ももちろん正統派のヒロインも、なんでも上手いとても素敵な娘役さんですが(しかし新公ヒロインはともかくバウヒロインが来るとは思っていなかったので、ホント嬉しかった!)、今回のジェインの在り方はまさに絶品だったと思います。原作の11歳より年齢は引き上げられていますが、しかしいつの時代のどこの国ともつかない世界観での16歳の少女です。これが絶妙に、リアル感のない、お伽話めいた、ちょっと鈍臭いのかもしれないけれど素直で一生懸命ないい子、というキャラになり、それを的確に、かつキュートにそして嫌味なく演じていて、この作品世界の屋台骨を支えていると思いました。ラストの3年後の姿も素晴らしい。
そしてもちろんあがちんのモプシーね! 「モプシーも、モプシーも!」素晴らしかったよ! 敢闘賞ものでしょう。
…でも、もっと凝ってくるかなと思ったセットも(装置/稲生英介)、予算がないのかそんなでもなくて、やや凡庸に思えました。不思議な街マジェイアを表現するには足りなかったと思います。衣装(加藤真実)はまあ健闘していたかもしれないけれど、そう新調がたくさんできるわけでもないし、やはり微妙な域でしたよね。もっとサイケにカラフルに、安直な表現ですかオモチャ箱みたいな舞台に仕立ててくるかと思ったんだけどなあ…ちょっとインパクトが弱かったですね。
なのでその他の出演者たちはぶっちゃけやりようがなかったのではないかしらん、とも思います。娘役ちゃんたちのミュージカルパートも、可愛いんだけれど、そしてこれこそミュージカルの魔法なんだけれど、でも原作が描いている魔法はそういうことじゃないだろう、という気がどうしてもしてしまいました。
私は原作のキモはピクニックのくだりだと思っているのですが、舞台ではその前にアダムがなんか孤独とか疎外感みたいなことを歌い出すので、えっそっちの話にするの!? まさか魔法の話はナシ!? とちょっとヒヤヒヤしちゃいましたよね…この物語はアダム側でするものではないと思うぞ、疎外されるマイノリティの話ではないんですよ。視点人物かつ本当の主人公はジェインですよ、我々平凡な、魔法など使えない人間の側の物語なんですよ。
だからこそこの場面でアダムがジェインに解く世界の魔法、はとても大事なもので、ここをこそミュージカルとしてもっとがんばるべきだったんじゃないのかなあ。でもドングリが大木になったり、一面の草原がミルクの海に…みたいなのを装置でやられても興醒めし失笑しそうだし、難しかったのかなあ。映像向き? 過去の海辺を舞台に現出させることはできそうに思えましたが、台詞のみでしたね。
もちろんアダムが真に解いているのは、世界は魔法で満ちているということ、誰にでも魔法は使えて、それは胸の中の「できる」「やるんだ」という「箱」に気づきそれを開くだけでいいのだ…というようなことです。だからジェインはラストにその言葉を思い出し、そうしてみる。けれどあの幕切れはおそらく、ジェインが望んだような意味でのアダムとの再会は叶わなかった、ということですよね。ニニアン(華世京。まあこういう抜擢って劇団は常にやってきたし、まだまだこれからですよ…)はアダムと会えたのでしょうか、でもそれはまた別の物語ですよね。
わからないものは怖い、だから排除しようとする…という「普通の」人間に対して、アダムは「ただそのままで、ありのままで認めてくれれば、怖くなんかなくなるよ」と言うわけですが、それができる人間はやはり少ない。未知への恐怖はともかくとして、自分たちの持ち分が脅かされることへの恐怖は残念ながらそう簡単には払拭できないものです。本物の魔法使いなんかが存在したら、タネと仕掛けを深め芸と演目を磨き子孫に守り伝えることで儲けてきた魔術師たちのおまんまは食い上げです。だからアダムを排除しようとする。だからアダムは金貨を降らせて姿を消す…そして食うに困らなくなった魔術師たちは多分働くのを止め、マジェイアの街は崩壊したのでしょう。それで父の抑圧から解放され、ピーターが良き青年、ジェインの良き兄となった一方で、女の子だから助手にしかなれない、魔術師にはなれないとされていた中で世界一の魔術師になりたいと思っていたジェインの夢は、希望は、はたしてどうなったのでしょうね? 箱を開けることを思い出したので、アダムに再会はできずとも、再びその夢に向かって歩き出した…ということなのでしょうか。あるいは違う夢を描くことを始めた? 舞台ではそこまでは描かれていないのだけれど…
そのほろ苦さがなんとも味わい深い、奥深い作品ではありました。なのでもちろん単なるお子ちゃまファンタジーミュージカル、ではなかったとは思います。ベタな恋愛がないせいもありますが、宝塚歌劇っぽくもなかったかもしれません。でもザッツ・キムシンだった(笑)。ジェインの歌の不思議な音階とか、ちょっとツボでした。
わりと長めのフィナーレがついていることは楽しくてよかったのですが、芝居のラストにあーさが板付いていてフィナーレもあーさから始めるのは無理があるよ-。『リッツ~』もこのパターンだったけれど、幕が下りている間ずっと拍手して待つ観客の気持ちにもなってくれ…
白燕尾と白いドレスのデュエダンは、あったかもしれないもうひとつのアダムとジェインのダンスのようでもあり、とても素敵でした。
ガールズではスカステですっかり顔を覚えたすわんちゃんと、最下の華純沙那ちゃんばっかり見ていました。こういう顔立ちの娘役が好みなのです! あとは原作より父親の情愛を感じたあすくんロバートがやはりよかったかなあ。カレンさんや愛すみれちゃんは常に任せて安心です。そしてあがちんは本当に芸達者ですよね、まあ2幕とっぱしの歌は歌詞が全然聞き取れなかったけどね…(笑)
全員に台詞があったのもよかったかと思います。そういうの、大事です。
久々のKAATは都内から行くのはやはりちょっとかったるいんだけど、ハコとしては私は好きで、いい劇場ですよね。ビルのてっぺんにあるけれどアクセスはそんなに悪くないし、ロビーにもベンチがちゃんとあって導線も悪くない。山下公園へのお散歩も楽しいです。中華街には今回は寄らなかったけれど、営業はしているのかしらん…『マノン』も取り次がれるといいな、楽しみです。
KAAT神奈川芸術劇場、6月12日11時。
魔術の都マジェイアにひとりの青年がたどり着く。青年の名はアダム(朝美絢)。魔術師・名人組合に入るため、言葉をしゃべる犬モプシー(縣千)と共にストレーン山脈を越えてはるばるやってきた彼は、街でジェイン(野々花ひまり)という娘と出会う。彼女は魔術師になることを密かに夢見ていたが、マジェイア市長兼マジシャンである父ロバート(久城あす)は兄のピーター(壮海はるま)ばかりを優遇していたのだ…
原作/ポール・ギャリコ、脚本・演出/木村信司、作曲・編曲/長谷川雅大、植田浩德、振付/百花沙里。1966年に発表されたファンタジー小説を原作にしたロマンス、全2幕。
キムシンはプログラムで「永年、ファンタジー作品は企画が通りませんでした」という言葉でコメントを始めていますが、私に言わせれば理由は明白で、舞台との相性が悪いからだと思います。ファンタジーと言ってもいろいろありますが、演劇、特にミュージカルが舞台に現出させるドリーム、舞台の魔法は、文学が描き出すそれとは似て非なるもので、「混ぜるなキケン」だと私は思う。この古い小説を私はタイトルしか知らず、あーさの帯付きで文庫が復刻発売されたので買って読んでみましたが、古風な訳文のせいもありますが要するに大人の童話といったタイプのファンタジーで、これはどんな形であれ舞台でやるのはなかなか難しいぞ、まして宝塚歌劇では…と私は心配したものでした。
宝塚歌劇は非現実的なまでに美しいスターたちが夢のような物語を織りなす舞台ですが、しかしファンはみんなスターが現実を生きる女性であることを知っているし、ファンもまた現実の生活をやりくりして劇場に来ている、現実の世界を生きる存在なのです。劇場も舞台も現実に存在するものなのであり、そして我々の現実に文学が、空想が描くような「魔法」は、ない。
そういう「魔法」を小説ではなく舞台で表現しようとするなら、結局はタネも仕掛けもあるトリック、ギミック、マジックに頼るしかないのです。この物語は、タネも仕掛けもある手品の技を競う手品師、魔術師たちの街に、「ありのままの魔術」しかできない、とのたまう青年が現れて、もしや禁断の、異端の、「ほんものの」魔法を使う、本物の魔法使いなのでは?と騒動が起きる…というようなお話です。でも、アダムがやった、卵の殻を割り、かき混ぜてメレンゲにしたものを、また元の卵に戻す「ありのままの魔術」は、現実の人間であるあーさが現実の舞台上でやってみせることはできません。だから舞台でのアレは、ボウルか何かに仕掛けがあるのでしょう。それは私たち観客にもそう想像できてしまう。そんな状態でアダムの魔法を信じたり夢見たり、できるわけがないじゃないですか。この舞台化はハナから無理ゲーなのです。寒すぎる、しんどすぎる、つらすぎる。この舞台に初見で私がノレなかったのは、私に童心がないから、ではないと思う。多くの観客も、きちんと明文化できなくとも、この作品に生じてしまう現実の薄皮の皮膜をうまく越えられなかったのではないかと察します。舞台の嘘と小説の嘘、舞台のドリームと小説のドリーム、舞台のファンタジーと小説のファンタジーは位相が違っていて、ねじれているのです。それは容易には、あるいは絶対に、乗り越えられないものなのではないでしょうか。
でも、ここだけがネックで、逆に言うとそこにだけ目をつぶれば、ちょっとシニカルでホラーでもあるような、けれどとても哲学的かつ普遍的な、そしてとてもいいことを訴えている、ハートフルで美しい作品なのだな…と、三回観てやっと私は得心したのですけれどね。ザッツ・キムシンだし、やりたかったこともとてもよくわかる、繊細で丁寧に誠実に作られたいい作品だな、と思いました。
あーさはその圧倒的な美貌とナチュラルな演技力を生かして、浮き世離れした、「ほんものの魔法使」かもしれない青年アダムを、それは見事にやってのけていました。
でも、MVPはあがた犬(あがたせんではなくあがたけん)ではなくひまりだと思う。先日までの主人公の子供時代のお役も素晴らしかったし、子役はもちろん大人っぽい女性の役ももちろん正統派のヒロインも、なんでも上手いとても素敵な娘役さんですが(しかし新公ヒロインはともかくバウヒロインが来るとは思っていなかったので、ホント嬉しかった!)、今回のジェインの在り方はまさに絶品だったと思います。原作の11歳より年齢は引き上げられていますが、しかしいつの時代のどこの国ともつかない世界観での16歳の少女です。これが絶妙に、リアル感のない、お伽話めいた、ちょっと鈍臭いのかもしれないけれど素直で一生懸命ないい子、というキャラになり、それを的確に、かつキュートにそして嫌味なく演じていて、この作品世界の屋台骨を支えていると思いました。ラストの3年後の姿も素晴らしい。
そしてもちろんあがちんのモプシーね! 「モプシーも、モプシーも!」素晴らしかったよ! 敢闘賞ものでしょう。
…でも、もっと凝ってくるかなと思ったセットも(装置/稲生英介)、予算がないのかそんなでもなくて、やや凡庸に思えました。不思議な街マジェイアを表現するには足りなかったと思います。衣装(加藤真実)はまあ健闘していたかもしれないけれど、そう新調がたくさんできるわけでもないし、やはり微妙な域でしたよね。もっとサイケにカラフルに、安直な表現ですかオモチャ箱みたいな舞台に仕立ててくるかと思ったんだけどなあ…ちょっとインパクトが弱かったですね。
なのでその他の出演者たちはぶっちゃけやりようがなかったのではないかしらん、とも思います。娘役ちゃんたちのミュージカルパートも、可愛いんだけれど、そしてこれこそミュージカルの魔法なんだけれど、でも原作が描いている魔法はそういうことじゃないだろう、という気がどうしてもしてしまいました。
私は原作のキモはピクニックのくだりだと思っているのですが、舞台ではその前にアダムがなんか孤独とか疎外感みたいなことを歌い出すので、えっそっちの話にするの!? まさか魔法の話はナシ!? とちょっとヒヤヒヤしちゃいましたよね…この物語はアダム側でするものではないと思うぞ、疎外されるマイノリティの話ではないんですよ。視点人物かつ本当の主人公はジェインですよ、我々平凡な、魔法など使えない人間の側の物語なんですよ。
だからこそこの場面でアダムがジェインに解く世界の魔法、はとても大事なもので、ここをこそミュージカルとしてもっとがんばるべきだったんじゃないのかなあ。でもドングリが大木になったり、一面の草原がミルクの海に…みたいなのを装置でやられても興醒めし失笑しそうだし、難しかったのかなあ。映像向き? 過去の海辺を舞台に現出させることはできそうに思えましたが、台詞のみでしたね。
もちろんアダムが真に解いているのは、世界は魔法で満ちているということ、誰にでも魔法は使えて、それは胸の中の「できる」「やるんだ」という「箱」に気づきそれを開くだけでいいのだ…というようなことです。だからジェインはラストにその言葉を思い出し、そうしてみる。けれどあの幕切れはおそらく、ジェインが望んだような意味でのアダムとの再会は叶わなかった、ということですよね。ニニアン(華世京。まあこういう抜擢って劇団は常にやってきたし、まだまだこれからですよ…)はアダムと会えたのでしょうか、でもそれはまた別の物語ですよね。
わからないものは怖い、だから排除しようとする…という「普通の」人間に対して、アダムは「ただそのままで、ありのままで認めてくれれば、怖くなんかなくなるよ」と言うわけですが、それができる人間はやはり少ない。未知への恐怖はともかくとして、自分たちの持ち分が脅かされることへの恐怖は残念ながらそう簡単には払拭できないものです。本物の魔法使いなんかが存在したら、タネと仕掛けを深め芸と演目を磨き子孫に守り伝えることで儲けてきた魔術師たちのおまんまは食い上げです。だからアダムを排除しようとする。だからアダムは金貨を降らせて姿を消す…そして食うに困らなくなった魔術師たちは多分働くのを止め、マジェイアの街は崩壊したのでしょう。それで父の抑圧から解放され、ピーターが良き青年、ジェインの良き兄となった一方で、女の子だから助手にしかなれない、魔術師にはなれないとされていた中で世界一の魔術師になりたいと思っていたジェインの夢は、希望は、はたしてどうなったのでしょうね? 箱を開けることを思い出したので、アダムに再会はできずとも、再びその夢に向かって歩き出した…ということなのでしょうか。あるいは違う夢を描くことを始めた? 舞台ではそこまでは描かれていないのだけれど…
そのほろ苦さがなんとも味わい深い、奥深い作品ではありました。なのでもちろん単なるお子ちゃまファンタジーミュージカル、ではなかったとは思います。ベタな恋愛がないせいもありますが、宝塚歌劇っぽくもなかったかもしれません。でもザッツ・キムシンだった(笑)。ジェインの歌の不思議な音階とか、ちょっとツボでした。
わりと長めのフィナーレがついていることは楽しくてよかったのですが、芝居のラストにあーさが板付いていてフィナーレもあーさから始めるのは無理があるよ-。『リッツ~』もこのパターンだったけれど、幕が下りている間ずっと拍手して待つ観客の気持ちにもなってくれ…
白燕尾と白いドレスのデュエダンは、あったかもしれないもうひとつのアダムとジェインのダンスのようでもあり、とても素敵でした。
ガールズではスカステですっかり顔を覚えたすわんちゃんと、最下の華純沙那ちゃんばっかり見ていました。こういう顔立ちの娘役が好みなのです! あとは原作より父親の情愛を感じたあすくんロバートがやはりよかったかなあ。カレンさんや愛すみれちゃんは常に任せて安心です。そしてあがちんは本当に芸達者ですよね、まあ2幕とっぱしの歌は歌詞が全然聞き取れなかったけどね…(笑)
全員に台詞があったのもよかったかと思います。そういうの、大事です。
久々のKAATは都内から行くのはやはりちょっとかったるいんだけど、ハコとしては私は好きで、いい劇場ですよね。ビルのてっぺんにあるけれどアクセスはそんなに悪くないし、ロビーにもベンチがちゃんとあって導線も悪くない。山下公園へのお散歩も楽しいです。中華街には今回は寄らなかったけれど、営業はしているのかしらん…『マノン』も取り次がれるといいな、楽しみです。
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